「展示力合宿 in かなざわ」僕たちは鑑賞者を想定しているか?この試みを公開する意味はどこに存在するのだろうか?
僕たちは、何を・どう・誰に提示しているのか。はたして僕たちは展示たりうるのか、あるいは「展示」を打ち立てられうるのか。
もし僕たちが自己言及にのみ行き着いてしまうのなら、この試みを公開している意味はどこにあるのか。
長い見出しをつけたが、つまりは僕たちは誰に向けてこの試みを公開しているかということである。もし僕たちが鑑賞者を想定出来ていないのであれば(僕は完全に自身と自作と会場の関係にのみ囚われて、外部を想定できていなかった)この試みを公開する意味はどこにあるのか。このテキストのきっかけになったことは、昨日来てくれた友人の感想から来ている。(グミについてのコメントが入っているが僕のコメントでは無いのでルール許容だろう(か))
以下が友人の感想。
僕は今日このコメントの的確さと、外部を想定していない自分の愚かさに唸ってしまった。
本企画は大きく分けて2つのパートがある。展示が生まれる作用や流れを公開する、第一弾である"公開"パート(グミ・箔一・芸術村)と、第2弾の展覧会パート・記録によるドキュメンテーション"展覧会"パート(箔一・芸術村)である。このあと始まる第二弾を思うとき、たしかに今の段階への断定は出来ない。それでも、鑑賞者不在の話について僕たちは真剣に捉えなくてはいけないと思う。前述の友人のコメントでもあるように、この企画は参加アーティストにとって意義ある試みである。しかし僕たちは本当にそこに居直ってしまって良いのか。これは参加者それぞれの問題だろう。そして全体ではこの問題にどう折り合いをつけるのか。
今日は日直によるルールと、グループに分かれた参加作家による初のキュレーショナルな「展示」であった。たくさんの混乱があって、たくさんの合議と合意があった。ミーティングの詳細な内容について詳しくは書かないが、コンセンサスを作ろうとする姿勢は僕たちにとって今一番必要な態度であった(ある)ように思う。
最後に、今日のこのテキストは、誰かを批判したくて書いているわけではない。これは僕に対して、僕が存在する構造に対して書いている。個人に対してではない。
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個人的な大反省: 箔一グループディスカッション、いろいろ考えすぎて僕は(ドつまんない)マジメを発揮しちゃった。もうーーいつも僕は柔軟性にかける。
今日、コンポジションとレトリックに囚われすぎていた僕に髙山晃が大切な視点を示してくれた。僕たちはもっと作品ベースで話す言葉が必要であるということ、作品を配置する会場そのものについてもっと関心を持つこと。様々な矛盾と留保に縛られすぎた僕にとって、むしろ作品が唯一の救いだったのではないかと思わせてくれた。
(23.11.3 0:09 青木遼)
「展示力合宿 inかなざわ 」
[会 期]2023年11月1日(水)〜11月16日(木)入場無料
[会 場]金沢市民芸術村PIT5アート工房・金沢アートグミ ・箔一ビル
参加作家: 青木遼、 荒山莉子、 栗坂萌子、 伊藤日向子、 江口湖夏、 Munehiro OHTA / mooney、 小田浩次郎、 小野綾花、 酒井千明、 佐藤莉於、 白川真吏、 高升梨帆、 高山 晃、 寺林俊太、 中村さやか、ナギソラ、 西村颯貴、中西航基、 前田宗志、間瀬円也、 的野仁紀、 三ツ谷麻野、 森田碧、 森田翔稀、 吉田鷹景、 吉田コム
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