パズル 2 プロローグ
前兆 一九八三年
「山の上なんてつまらない。私、飛行機に乗るの飽きちゃった。早く海で泳ぎたいな」
娘の言葉に少しがっかりしたが、その通りかもしれなかった。
日本から長時間も窮屈な飛行機の中で過ごしてホノルルを経由し、さらに飛行機を乗り換えハワイ島に着いたのは、昨日の夕方のことだった。
ホテルについて夕食をとり、すぐにベッドにもぐりこんだが、時差と長旅の疲れが抜けきらず、目覚めたときから体の重さを感じていた。しかし、子供はけろっとしたもので朝から興奮気味だった。
家族で初めて過ごす海外だったので、ここぞとばかりに観光スケジュールを詰め込んでいた。
午後になると山頂付近は雲で覆われてしまうことが多いため、午前中の遊覧飛行ツアーを申し込んでいた。眼下には、溶岩で黒く覆われた地面が至る所に見えた。
「ほら、見てごらん。あの黒いところが溶岩だよ」
娘は、ふ〜んとつまらなそうに返事をしながら、外を眺めたままだった。
正月をハワイで過ごそうと提案したとき、妻と娘は大喜びしていたが、今はそのときほどの高揚する気分はまるでなかった。妻は寝ているし、娘は暇を持て余していた。
「見て、見て! 花火だよ」
しばらく黙り込んでいた娘が、大きな声を上げた。これくらいの年齢の子どもは、いきなり突拍子のないことを口にするものだ。自分の世界に入り込み、ありもしないことを実際に見たかのように語ることがある。こんなところで花火など上がるわけがない。
「花火? 花火がしたいのかい?」
「ううん、違うよ。あっちで花火が上がってたんだよ」
父親は仕方なく、娘が指さす方に目を向けたが、さきほどと変わらぬ景色が広がっているだけだった。
「もう見えなくなっちゃったぁ…」
つまらなそうにつぶやいた。
飛行機は、マウナ・ロア山の頂を過ぎ、前方にはキラウエア火山が見え始めていた。
「あっ、あそこも!」
幼い少女は目を見開き、瞳を輝かせながら前方を凝視していた。視線の先には、数十メートルほどの火柱が上がっていた。娘は、花火だ花火だとはしゃいでいた。
「何だ、あれは」
父親が目にしたのは、花火ではなく、火柱だった。
火柱まではかなり距離がありそうだったので、正確な高さはわからない。数十メートルほどにも感じたが、百メートルだったかもしれない。
それはまるで噴水のように、天に向かって勢いよく吹き上げていた。しかし、目の前にあるのは噴水ではなかった。巨大な花火と形容するほうが適切だった。
パイロットが慌ただしく無線で何やらやり取りを始めた。内容は理解できなかったが、楽しい会話をしているわけではないことだけはわかった。
火柱は山から吹き出ていた。細かい霧状の火が勢いよく放出していた。火の中心は黄色みがかり、外側は真っ赤に染まっている。吹き出した火の飛跡は、美しい様相を呈していた。
一九八三年、キラウエア火山は勢いよく火柱を上げた。
その後、活動を弱めてからも溶岩はゆっくりと数十年に渡って地球の内部から流れ出し続けている。
ハワイ島における噴火や溶岩があふれ出る場所は一ヶ所だけでなく、現在でも各地で頻繁に起こっている。地球の内部と直結したホット・スポットに位置しているハワイ島の下には大量の溶岩がたまっており、古代から幾度となく噴火が繰り返されている。
ハワイアンの間では、火山の噴火は「女神ペレの怒り」だと言い伝えられていた。
西暦五百年頃、ポリネシアンたちがハワイ諸島に移り住む以前から、ハワイ島では火山の噴火が繰り返されており、女神ペレが怒ると山が火を吹くと人々は恐れていた。火山が爆発するたび、火の神、ペレの怒りを鎮めるために祈祷師は祈りを捧げ、火口に供え物を投げ込んできた。その風習は現在でも続いている。
キラウエア火山の大噴火が発生したのと同じ時期に、世界中で干ばつ、洪水、冷夏、熱波などの異常気象が起こっていた。
多くの学者たちは、南米ペルー沖の熱帯太平洋を中心とした海域の水温が上がり、大気の流れを変えたことこが、世界各地に発生した異常気象の原因だと考えていた。
世界中に様々な影響を及ぼしたこの現象は、もともと毎年クリスマスの頃にペルー沖の海面温度が上昇することから、スペイン語で「神の子」を意味するエル・ニーニョと呼ばれていた。
自然災害のみならず、一九八〇年前半は世界中で衝撃的なことがいくつか起こった。イラン・イラク戦争、フォークランド紛争、そして奇妙な病気の脅威に拍車がかかり始めていた。
一九八三年末には、エイズに関する国際会議がWHO(世界保健機構)の呼びかけにより開催された。
二十世紀末は、温室効果が世界の共通問題として取り上げられ始めたり、ニューヨーク同時多発テロなどが起こった。
しかし、地球誕生四十六億年という長い歴史から見ると、さほど大きな出来事ではなかった。
わずかな予兆にすぎなかったのである。