326.どうしても無為の中に生きている
ふと、思うときがあります。
なぜ今こんなことをしているのかと。
なぜここにいるのかと。
なんなんだろう、この人生は、と。
思うこと自体は不思議でもなければおかしなことでもありません。
どんな意味があるのか、どんな価値があるのか、と思えば思うほど、堂々巡りの罠にハマってしまいます。
結局何者にも意味や価値なんてものはなくて。
ないというよりは、その人次第なので。
自分で意味や価値をつけるものなんだなぁ、と思うわけです。
仏教でいう「空」という考え方に似ているのかもしれません。
仏教詳しくないけれど。
無為という感覚
無為、という言葉があります。
https://www.weblio.jp/content/無為
時間はどうしても漫然と過ぎ去ります。
何をしていても、何もしていなくても、ただそこにあり、無情なほど刻々と進みます。
元々意味や価値なんてものはないのです。
仕事や娯楽に溢れた現代と、平安時代や江戸時代と時間の過ぎ方は何も変わりません。
それぞれの時代の人々は、どう生きたのでしょうか。
無為な時間を無為なものとして捉え、ただ過ぎる時に身を委ねていたのでしょうか。
何もできること、やることがない時代だとそれ以外に方法はないかもしれません。
今はどうでしょうか。
時間に身を委ねているだけでしょうか。
ゆっくりと歩を進めているのでしょうか。
爆速で走り出しているでしょうか。
その自分の過ごし方に、意味や価値を見出しているでしょうか。
結局は、時間は無為ですしそこにどんな価値をつけるか、どんな意味を見出すか、そしてどう生きるかは、その人次第です。
意味や価値は降ってきたり湧いて出てきたりしません。
自分で設定し続けるものだと思います。
虚しさを晴らすために
考えすぎると虚しくなってしまいます。
究極、どうせみんな死ぬんだよな、というところに行き着くと、今を生きる意味がいよいよなくなってしまいます。
これは何のためにやっているんだろう。
なぜこんなことをやっているのだろう。
そういうある種の虚しさが押し寄せてくるのは仕方のないことですから、大切なのはそれをどうするかということです。
空虚や無為に身を任せると、そりゃあ空虚や無為な生き方になっていくでしょう。
物はあります。
場もあります。
人もいます。
時間だってあります。
周りや環境に依存するのではなく、自分で価値付けをし続けられる人に会い、場に訪れる。
時間をかけてみる。まずはやってみる。
どうせ何もしなければ、無為なのですから。
粘り強い人生を創ってみてはいかがでしょうか。