優しさはぬかるみの入り口
「今日はありがとうございました。私、またご迷惑をおかけしちゃって、すみません。」
私がお礼を言うと、
「いいのいいの。俺が内山さんとごはん食べたかっただけだから。」
わざわざ駅のホームまで送ってくれた葉山さんが微笑んだ。スマートにかっこいい言い方をする男になんて絶対に近づかないと決めていたはずなのに、優しい言い方に心が跳ねるのを感じた。会社の先輩である葉山さんは、仕事中、私の元気がないことを察してご飯に誘ってくれたのだった。
「そんな優しいこと言われたら泣いちゃいます・・・。」
私が俯いて言うと、
「ここで泣かれるのはさすがに困るな。泣くなら二人の時にして。」
葉山さんは冗談ぽく笑って言った。
「その言い方、二人なら泣いても良いみたいに聞こえますよ。」
私がつられて少し笑って言うと、
「内山さんは普段から抱え込みすぎる癖があるから、無理になっちゃう前に吐き出した方がいいよ。俺で良かったらいつでも付き合うし、連絡して。」
葉山さんは私の顔を覗き込むようにして言った。細かいことにまで気が回る優秀な葉山さんは、誰にでもこんな優しくするのだろうと思いながらも、どきどきする気持ちを止められなかった。
「でも・・・。」
私が躊躇を捨てきれず言うと、
「遠慮しなくていいよ。俺がしてあげたいだけなんだから。」
と言った葉山さんの手が一度だけ、私の頭に軽く触れた。嬉しいと思った。言われて初めて、私、こういう優しい言葉が欲しかったんだと気付いた。
「・・・またそんな優しい言葉・・・。ずるいです。」
私は顔を上げないまま、視線の先にあった葉山さんのコートの端を掴んだ。
「どうした?酔っちゃった?」
葉山さんは微笑みながら聞いた。
「酔ってないです・・・ごめんなさい・・・、もう少し葉山さんに触れたくて。」
私はそのまま葉山さんの背中に腕を回して抱きついた。葉山さんは少し驚いたような反応をしてから、そっと私を受け止めるように抱きしめ返してくれた。
「ふふふ、どーしたの?」
見上げた葉山さんは優しく微笑んでいた。でもその笑顔を見たら、急に罪悪感が湧き上がってきて、私は焦って言った。
「えっと・・・私、電車出ちゃうからそろそろ行かなきゃ。本当に、今日はありがとうございました。」
そして葉山さんの胸元をそっと押して離れると、電車に駆け込んだ。
「気をつけて帰るんだよ。」
私に手を振る葉山さんが窓越しに見えたけれど、左手の薬指で指輪が鈍く光っていた。
「・・・駄目だよ。好きになんてなっちゃ駄目だよ・・・。」
自分に言い聞かせるように小さな声で言ってみたけれど、葉山さんの温もりがまだ体に残っている気がして、胸の奥がぎゅっとつかまれた様に痛んだ。