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第二ボタン

 誰も来ないだろうと選んだ委員会室の前の廊下は少し寂しくて、手持ち無沙汰で寄りかかった壁から、制服越しに感じる冷たさが心細かった。呼び出してはみたけれど、先輩は来てくれないかもしれない。両手を暖めるようにホッカイロを握りながら、いつもより指先が冷たく感じるのは寒さのせいだろうか、それとも緊張のせいだろうかと考えた。
 その時、ぱしゅっ・・・ぱしゅっ・・・と上履きを擦って歩く、先輩独特の足音が聞こえた。ゆっくりと近づいてくる。そして、胸ポケットに卒業式のコサージュをつけたままの先輩の姿が見えた。
「遅いんだけど。」
何と挨拶して良いか分からず、私は目をそらして文句を言った。
「まったく、卒業生って結構忙しいんだけど?後輩に呼び出されてちゃんと来た俺ってめちゃくちゃ優しくない?」
先輩の言い方は相変わらずで、卒業式なのに何も変わらないなと思った。
「別に、呼び出されたんだから来るのは当たり前でしょ。」
嬉しかったのに、素直にありがとうと言えない自分が悔しい。
「何だよ、用事あるならさっさと言え。本当お前は先輩に対する敬いが足りないよな。」
先輩は少し呆れたような声で言った。
「・・・・・・ボタン。第二ボタン。・・・もらってあげてもいいわよ。どうせ誰にももらってもらえなかったんでしょ。」
先輩の反応を見るのが怖くて、芝生の上に少し溶け残った雪を窓越しに見つめたまま切り出した。
「は?誰がお前になんかやるかよ。」
先輩はいつも通りのトーンで返事をした。
「そのまま帰ったら、また弟に馬鹿にされるんじゃない?」
私は第二ボタンをすんなりもらえなかったことにがっかりしながら、それに気付かれたくなくて、取り繕うように言った。
「そしたらあいつのことなんて殴り倒すだけだから関係ねーし。」
先輩はくっくっと笑って言った。
「でも、・・・どうせその制服もう着ないんでしょ?だったら、ボタンくらいくれたっていいじゃない。ケチ。」
先輩のことをずっと好きだった。でも、好きだと思うほど素直になれなくなって、照れ隠ししようとすればするほど悪態ばかりが口から出てしまう。やっぱり、そんな後輩は可愛くないよね・・・。
「俺の第二ボタンはそんな安いもんじゃないの。そんなボタン欲しいなら自分で買ってくださーい。」
先輩はそんな私をからかうような声でいつも通り言った。他の後輩とも普通に仲良く会話する先輩だったけれど、こんな風に意地悪をしたりからかったりするのは私だけだった。先輩が私を好きなわけがないのは百も承知だけれど、そんな風に特別扱いされる時間が好きだった。
「先輩のじゃなきゃ・・・意味ないじゃん。バカ。」
それでも最後くらい、優しくしてくれたっていいのにと思った。先輩は私にボタンを渡したくないみたいだし、この辺で引き下がらないといけないのだろうと分かっていた。たとえもう二度と会うことはないとしても、先輩に嫌われたくはない。その時、また足音がして、先輩が私の隣まで歩いて来た。驚いて見上げると、
「そんなに欲しいならしかたねーな。」
と言って、今外したばかりだと思われるボタンを私に差し出してきた。
「いいの・・・?」
私が驚いて聞くと、
「いらないならあげないけど?」
と言って、先輩は意地悪そうに笑いながら、私が掴みかけたボタンをひょいと上に上げた。
「本当先輩って性格悪い。」
私が口をとがらせて文句を言うと、
「優しいの間違いじゃん?」
先輩はそう言って私の手に押し付けるようにボタンを握らせてから、私に背を向けて、上ってきた階段の方に歩き出した。
「・・・ありがとう。」
小さな声だったけれど、初めて素直なお礼が言えた。涙を堪えてボタンを強くぎゅっと握ると、ボタンの裏側の穴部分が掌に刺さって痛かった。先輩のちょっと猫背気味な背中も、学ランの襟にかかってはねている襟足も、ポケットに手を入れたままのがに股も、全部ちゃんと覚えていたいと思った。

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