銀色の魚と黒い猫
今日、会社の上司にセクハラされた。
今日、廊下で先輩と雑談していたら、脇を通った上司に、『新しいプロジェクト頑張ってね、期待してるよ』って、すれ違いざまに腰をぽんぽんと軽く叩かれた。普段からフレンドリーで軽い人だから、きっとあの人に悪気なんて無かったのだろう。少し難しい仕事を託した私への激励のつもりだったんだろう。私への優しさだったに違いない。それでも、気持ち悪くてたまらなかった。直接肌に触れられたわけでもないのに、触れられたところから硬い銀色の鱗が私の体中に拡がっていくような違和感。それが全身に拡がるにつれて、私の呼吸は苦しくなっていく。まるで私を覆う鱗が皮膚呼吸を阻害しているみたいだと思った。
会社には相談窓口があるのを知っていた。それでも、相談できなかった。だって上司はプロジェクトに重要な人だと分かっていたから。もし私の相談で、上司が別の部署に飛ばされてしまったら、新しく立ち上げたばかりのプロジェクトは、まるで船長を失った船のように、たちまち荒波に飲まれて沈んでしまうだろう。一緒にプロジェクトを進めている先輩たちのことを考えると、そんなこと出来ないと思った。もしかしたら、逆に私が他の部署に飛ばされてしまうかもしれない。私の夢がやっと形になり始めているというのに、あの人なんかのせいで私だけ船を降ろされるなんて、まっぴらごめんだとも思った。
残業を終えて、鬱々とした気分のまま外に出ると辺りはかなり暗かった。1月の夜の風はまだ氷のように冷たくて痛かった。いつものように人通りの無い道をとぼとぼと歩いてバス停に向かう。
「キミはお魚?」
急に声をかけられて振り返ると、黒い服を着た少女が立っていた。少女が首を傾げた反動で、赤いチョーカーについた小さな鈴が『りん』と澄んだ音をたてた。フリルの多いそのスカートは、冬の夜には寒そうに見えた。少女は見るからに怪しかったけれど、不思議と恐怖や嫌悪は感じなかった。
「お魚?」
問いの意味が分からず繰り返すと、
「だって、キミ、銀色の鱗が生えてる。」
少女は私の腰をじっと見つめて言った。そうか、この子には見えるんだと、妙に納得した。
「あなたは?」
私が聞くと、
「僕は黒猫。」
と、少女は静かな声で答えた。
「黒猫・・・。」
と、私は口の中で繰り返した。
「陸は苦しいよね。お魚は酸素を吸えないもの。」
黒猫と名乗った少女は言った。
「・・・うん。苦しい。」
少女にはもちろん、同僚にさえ、セクハラのことは何も話していなかったけれど、なぜだか、少女は全部知っている気がした。
「たとえ船が沈んでも、キミは海の中の方が、自由に呼吸が出来ると思うな。」
黒猫はそう言ってにやりと笑った。
「でも、それじゃ・・・。」
私が反論しかけると、
「そんなこと言ってると、そのまま人間に食べられちゃうよ、ね?お魚さん?」
黒猫は急に真顔になって、私の言葉にかぶせながらそう言った。
「食べられちゃう・・・か。」
私が力なく言うと、
「まぁ、おいしそうなお魚さんなら、本当は僕が食べちゃいたいくらいなんだけど。」
黒猫は暢気に伸びをしながら、冗談ぽくそう言って笑った。黒猫の尖った犬歯が、キラリと光ったように見えた。
「ねぇ、私、どうしたら良いのかなぁ・・・?」
私が縋るように聞くと、
「さぁね。難しいことは僕にはわかんにゃい。」
黒猫はもう、私に興味を無くしたようにそっぽを向いた。そのままどこかへ消えてしまいそうな気がしたけれど、私はもう少し話していたいと思った。
「ねぇ、待って、行かないで。私はどうしたらいい?」
叫びながら黒猫の手を掴んだはずなのに、伸ばした右手は、虚しく空を切っていた。遠くでかすかに鈴の音がした。
「行かないでよ・・・。勝手に来て、勝手なこと言って、そのまま置いていかないでよ・・・。」
堪えていた涙が一気に零れて、慟哭した反動で私の肺は冷たい酸素を吸い込んだ。
「私は魚じゃない。人間だ。私だって船乗りだ。海になんて飛び込むもんか。ここで生きてやるんだ。」
泣きながら叫んだら、鱗が一枚ずつ剥がれていく気がした。