狼の皮を着た羊と羊の皮を被った狼の話
月の砂漠には、狼がたくさん住んでいました。銀の砂が輝くこの砂漠は、夜になると青白い月を反射して、キラキラ光って見えました。狼たちは砂と同じ銀色に輝く毛皮を持っていました。普段は一匹で暮らす狼たちは、満月になると集まり、群れを作って夜の砂漠を駆けました。その姿は、まるで銀色の波がうねっているようでした。その様子はとても美しかったのですが、太陽の丘に住む羊たちはそれをとても恐れ、月の砂漠には決して近づこうとしませんでした。
ある晴れた日、太陽の丘の麓に一匹の羊がいました。羊は珍しく、群れから離れてたった一匹で歩いていました。向かう先にあるのは月の砂漠でした。羊の前には長い長い道が伸びていましたが、その道を歩くものはその羊以外誰も居ませんでした。太陽の丘には、いつも太陽が燦々と射して、柔らかな若草が青々と茂っていましたが、長い長い道を歩くうちに、草はだんだんと減ってきました。日も落ち始め、羊の前には黒く長い羊の影が伸びていました。羊は怯む様子も無く、なおも前へと歩き続けました。羊の白い巻き毛がオレンジ色、朱色と赤く染まり、それから徐々に灰色、藍色とその色を塗り替えられていきました。温かだった空気も、砂漠に近づくにつれ、いつの間にか冷たく、凍りつくような温度に変わっていきました。月の砂漠では、気温の日間差が普通の倍ほど大きいのです。羊は身震いするようにぶるぶると体を振りました。そこに音は無く、空気は冷たく澄んでいて、細い糸がピンと張っているような緊張感がありました。その時、
――じゃり・・・。
羊の蹄に、何かさらさらとした感触のものが触れました。銀の砂です。その瞬間、何かを察知したかのように、青く光る千の目が一斉に羊を睨みました。羊はきびすを返すと、可能な限りの速さで走りました。狼は羊を追おうとせずに青く光る目でその白い背中をじっと見つめていました。
走って走って羊が辿り着いたのはごつごつと険しいガラスの崖でした。どうやって上ったのか分からないくらい高い崖でした。崖からは、果てしなく広がる銀色の海が見えました。砂の一粒一粒が月の光を反射して、暗い夜の闇の中でさえも、その存在を主張していました。羊は目の前に広がる小さな銀河の大きさに圧倒され、時折うねるように揺らぐ波に飲まれまいと踏ん張っているようにも見えました。
「はぁ・・・はぁ・・・。」
羊の後ろで不意に聞えた洗い息遣いに、羊が振り返ると、それは大怪我を負った狼でした。狼の腹は荒く裂かれ、ガラスの崖の砂利だらけの地面に、赤黒い血の滴を落としています。
「うぉーん。」
狼は、最期の力を振り絞るかのように高く長い遠吠えは響かせると、びくんと大きく痙攣してその場に倒れました。羊は戸惑うように足元の狼を見ています。月の砂漠中に響き渡った遠吠えは狼たちの波を揺らしました。それから次々と上がった短い遠吠えは、まさに力を狙う獣の声でした。その声は幾重にも重なって、大きく大きく膨らみました。羊はもう一度、足元の狼を見ました。その瞳に戸惑いの色は、もうありませんでした。羊はまるで笑うように、死んだ狼の裂けた腹に蹄を入れて鳴きました。
「めぇー。」
血だらけでぬめぬめした腸を引きずり出してもう一度鳴きました。
「めぇー。」
腸は長く、いくつかの塊状になっていたので、簡単に引きずり出すことが出来ました。何も食べていないようで、小さくなった胃と、力なくぶら下がった肝臓を順々に取り除いて狼に隙間を作ると、羊はくるりと自分の白い毛皮を脱いでその中に入りました。羊は狼の皮を被ってもう一度鳴きました。
「わぉーん。」
後に残ったのは、羊の皮に包まれた狼の中身だけでした。狼の皮は、少し汚れて濡れていましたが、羊にはぴったりであるように見えました。
狼の皮を着た羊はもう一度
「わぉーん。」
と鳴きました。羊の皮を被った狼は何も言いません。羊はくすりと笑うように体を揺らすと、新しい狼の手と足を使って、ガラスの崖を難なく降りました。そして、月の砂漠の、遥か彼方に消えていきました。青白い月はひっそりとそれを見ていました。その光に背を煌かせ、銀の波が銀の砂を蹴散らして走っています。羊でも、狼でもなくなったそれは、何を想って空を見上げるのでしょう。