少女
スピーカーから聞き慣れたベルの音が流れ、女性の声でアナウンスが続く。
「まもなく、3番線に通勤快速…」
私はそれを聞き流しながら、真っ直ぐ線路へと向かって歩いた。怖くは無かった。ただ、さすがに緊張しているのか、自分の鼓動がいつもより大きく感じられた。ローファーの底越しに感じる黄色い凹凸の感触を踏み越えて、私はまた一歩踏み出した。ちらりと左を見ると、小さく電車が見えた。前についているライトがまるで目のように見える。ライトが目なら、車輪を覆っている部分が口で、窓ガラスは広いおでこのようだ。近づいてくる電車は、これから自分の顔を汚すであろう私に、怒っているようにも見えた。
死ぬ時に理由は必要だろうか?クラスで虐められているとか、進路に悩んでいるとか、親と折り合いが悪いとか、そういうありきたりな理由が必要だろうか?生きるのに特別な理由なんて必要ないのに、死ぬ時にだけ理由が必要になるのは何でだろう?遺書は書いて来なかった。残された誰か、例えば先生とか家族とかが読んだとして、ステレオタイプな考えに縛られた彼らでは、私の想いを理解できるはずが無いと思ったから。でも遺書が無いことで、彼らは私の自殺の理由を勝手に想像して、見当違いに騒ぎ立てるのかもしれない。遺書くらい書いてくれば良かったと、少しだけ後悔した。まぁ、死んだ後のことなんて、私にはもう関係ないか。
クラスメイトとは、特別仲が良いわけじゃないけど、それなりにうまくやっていたと思う。成績も良い方で、望めばそこそこの大学にだって進学できた。親に訳も無く叱責されたことや虐待されたことも無い。でも、私は死にたいのだ。今日ここで。この駅で。人生で一度しか出来ないせっかくの経験なのに、そんな風に他人を理由になんかしたくない。私は私の意志で、美しく死にたいのだ。
今朝、私は目覚ましよりも早く目が覚めた。起き上がって、花柄のカーテンをそっと開けると、幻想的な朝靄の向こうから、柔い日差しが照らしていた。
『あぁ今日だ。』
と、何となく思った。私はそういう直感を信じてる。朝の景色がいつもより少し綺麗だったから。私にとって死ぬ理由なんてそのくらいでいい。肌寒かったからカーディガンを着たとか、良い匂いに誘われてクロワッサンを買ったとか、授業中に飛び交う英語を聞いていたらどうにも眠くてたまらなくなるとか、そういう当たり前の理由。綺麗な景色を見て死にたくなるのは悪いこと?私はいつも通り制服を着て、いつもより少し早く家を出た。
頬に当たる風が動いている。電車の気配を感じる。髪とスカートを靡かせて、飛び込む私は、今朝の景色と同じくらい、とびきり美しい。
「ねぇ、危ないよ。」
私の左手首を、誰かが掴む生暖かい感触があって、電車が運んできた風が私を強くゆすった。そしていつも通り私の前に停まる。
「大丈夫?ちょっと休む?」
私を止めた男性は、正義感に溢れた“良い人”に見えた。私はその男性を恨むように睨みつけると、私を掴んだ手を振り切って、電車を降りる人の群れに混じって立ち去ろうとした。
「本当に死にたいなら、電車が停まらずに通り過ぎる駅の方がいいよ。」
去り際に、無機質な声が聞こえた気がして振り返ったけれど、電車に乗り込んでしまったのか、男性の姿はもう無かった。
『今日はやめよう。』
と思った。私はいつだって自由に死ねるのだから、別に今日じゃなくたっていい。遺書を書いて来なくて良かったと思った。