見出し画像

砂糖菓子のうさぎ

 その時、僕が思い出したのはあの子だった。あの子の表情、声、そして柔らかさ。閉じた目の裏にあの子の姿がくっきりと浮かんでくる。

 僕は今、ちゃんと誰かの隣に居るはずなのに、どうして今、あの子のことなんか思い出してしまうのだろう?近づいてきて、僕の名前を呼んで、頬にそっと触れながら唇を重ねてくるあの子。きっともう二度と、僕がその温もりや甘さに触れることはないのに。

 あの子の姿を胸の奥の引き出しにそっとしまい込むように、ぎゅっと強く目を閉じた。その隙間から、一筋の涙がつぅと伝った。そうだ、僕はあの子に本気で恋をしていたのだ。思い出した途端にあの子への気持ちが急に蘇ってきて、抑えきれない涙となって、後から後から零れた。目の前の彼女はそんな僕を見て、一瞬驚いたような表情をした後、嬉しそうに笑って僕にティッシュをボックスごと差し出して言った。
「もう、そんなに良かったの?」
僕はティッシュを一気に2、3枚取り出すと音をたてて鼻をかんだ。
「うん、ありがとう、沙織さん。今日もすごく良かったよ。」
そしてにこりと笑って目の前の沙織さんを抱きしめた。僕はそうやって息をするように嘘を吐く。それは相手を傷つけない優しい嘘であるはずだった。それなのに、優しい嘘は僕の心をどんどん抉っていく。裸の胸に沙織さんの柔らかな肌が当たり、生ぬるい吐息が僕のうなじをそっとなでた。

 あの子はもっと不器用に僕に触れる子だった。滑舌の悪い話し方で僕を可愛いと言うあの子。茶色のカラコンが入った瞳で僕をじっと見つめるあの子。すらりと長い綺麗な指が僕のシャツのボタンを外すあの時間。あの子が首を傾げるのに合わせて、柔らかなショートカットの髪が揺れた。今も鮮明に思い出せるくらい強い記憶だ。本当に好きだった子のことを思い出す時でさえも、僕にはセックスの記憶しかない。僕みたいな男は、ベッドの中でしか愛されないのを知っている。

「ねぇ、誰のこと考えてるの?」
抱きしめたままの沙織さんが囁くように耳元で言った。
「んー?沙織さんのこと。」
僕はさらりとそう言って沙織さんの頭をぽんぽんと撫でた。
「いいよ。分かってる。純矢くんが私のことなんてこれっぽっちも好きじゃないってことくらい。」
沙織さんは僕の体にしがみつくように抱きつきながら言った。
「何言ってるの?僕は沙織さんのこと、ちゃんと好きだよ。」
僕は沙織さんの今にも泣き出しそうな顔を可愛いと思いながら、その唇にキスを落とした。
「うん。」
一度唇を離した後、沙織さんは悲しそうな顔で僕にもう一度キスをせがんだ。
「私は純矢くんが求めてくれる限り、ちゃんと純矢くんのものだから。一番じゃなくてもいいよ。」
沙織さんはそう、小さな声で言って、僕から体を離した。

 きっと沙織さんも愛されたいのだと思った。愛されるのと引き換えにあげられるものを、僕はこの体以外に知らない。きっと沙織さんもそうだ。愚かな生き方しかできない。そしてこの体を尽くしてなお、手に入らない存在は確かにあるのだ。
愛されたい。愛して欲しい。もう一度。嘘でもいいから僕を好きだと言って。

いいなと思ったら応援しよう!