24時間テレビと冷笑と感受性と
風呂から上がると居間で母が泣いていた。テレビからはサライが流れていた。丁度やす子さんがゴールしたところだった。
正直ギョッとした。母がこの手のコンテンツにここまで感情を動かされる人間だったとは知らなかった。やす子さんの児童養護施設の園長さんが出てきて涙腺が崩壊したらしい。
母は24時間テレビでやす子さんが児童養護施設出身ということを知ったらしい(僕も然り)。それ以来やけにやす子さんに感情移入していたが、ゴールで号泣するほどとは思ってもいなかった。
羨ましかった。
僕が失ってしまったものを母は未だに持ち続けてるような気がして、無性にやるせなくなった。小学生の頃からインターネット漬けになってた僕の感性には冷笑が組み込まれていることにハッとした。
芸能人が24時間走ってるのを見て何が楽しいんだと思っていたのに、ゴールで号泣する母を見て、途端に自分が矮小な存在に思えた。
お涙頂戴なんて言葉があるけど、むしろつくり手が感動するように仕向けたコンテンツで感動できないのはとてつもない機会損失なのでは。そう思い直すと、インターネット的な冷笑性がとても恥ずべきもののように思えてならなかった。
コンテンツを真っ直ぐに受け取れない自分の感性が、とても悲しかった。自分の感性がどんどん錆びついていっているような気がした。
最後に感涙したのはいつだろうかと記憶を辿る。直近だと、『レナードの朝』でロバートデニーロ演じるレナードが目覚めたシーンで思わず涙が出たのを思い出した。
精神疾患を患っている自分の現在の状況と思わず重なって、何故か涙が出た。レナードが目覚めるシーンが希望に満ちた光り輝く絵画の様に見えた。
その前は、何に感涙しただろうか…。思い出せない。去年プーケットに行った時に見た夕日な気もするし、何かの映画を見て涙した気もする。とにかく僕は、あまり感動して涙を流すということが少ない。
感動しない訳ではない。でも、涙を流すほどではない。僕がもっと豊かな感性を持っていれば、もっと沢山のコンテンツ・出来事で涙することができただろう。斜に構えていた自分が恥ずかしくなってきた。
今日もXでは24時間テレビのスタンスやコンテンツを小馬鹿にした投稿に何万件もいいねがつく。僕もそれにいいねを付ける側の人間だった。でもハッとした。コンテンツを用意された様に楽しめないのは勿体無いと。自分の感受性の欠如であると。
僕たち若者はテレビだったり、いわゆるお涙頂戴と言われるものだったりを何かとバカにして自尊心を慰めてるけれども、もう少し素直になってもいいんじゃないかと思う。自分の感性に向き合って、感動するものに素直に感動できるようになった方がいいに決まっている。誰かが僕らをバカにしたって、感性を奪うことはできないし、それに傷付かなくていい。
アリアナグランデだかテイラースウィフトだかが言っていた。「人生とは何回心から感動できる瞬間に出会えるか」だと。冷笑的な姿勢だと本来感動出来るものにも出来なくなってしまうし、自らの感受性も鈍ってしまう。僕たちはもっと素直になっていい。斜に構えなくてもいい。そう思わせてくれた安子さんと24時間テレビに感謝だ。BIG UP!