8分間の幸せ(後編)
前回のお話はこちら。
◆‥◇‥◆
「掃除完了!さあ、出かけるぞ。あ、こんな時間。急がないと」
聡介は、母がアイロンをかけて畳んで置いてくれたエプロンをカバンへ突っ込んだ。
そんなに乱暴にカバンに入れるなんて、せっかくのアイロンがけが台無しじゃない・・という母の声が聞こえてきそうだ。
アイロンがけはどうも苦手だ。
一度挑戦したことはあるが、ビフォー・アフターのアフターのほうがひどい状態になってしまった。それ以来、アイロンがけには手を出さないことにしている。
お気に入りのキャップをかぶってスニーカーを履いたあと、玄関の鏡の中に映っている自分の顔を見てつぶやいた。
「聡介。もう、心は元気か?」
鏡が返事をしてくれるはずはないけれど・・・。
母から『ニヤけている』と指摘されたということは、営業スマイルとは違う微笑むための表情筋をちゃんと使えるようになったということか。
◆‥◇‥◆
会社へ行くふりをして、通勤では使わない路線の普通電車の中で時間つぶしをしていた頃。少し先の駅の近くに、小さなケーキ屋さんがあることを知った。
どうしても気になって、何度か店の前に行ってみたけれど、「ケーキ、ひとつください」というのが恥ずかしくて通り過ぎてしまった。
店の雰囲気がよかったのでいつかは寄ろうと思っていた。
最後の給料で両親にケーキを買って帰ろうと思ったとき、この店のいつも真ん中にある美味しそうなチョコレートのケーキが頭に浮かび、初めて立ち寄ったのだった。
あの日、ケーキを買うために立ち寄ることがなければ、聡介はケーキ屋でアルバイトをすることはなかったかもしれない。
退職をして家に引きこもり、死んだように生きていたかもしれない。
◆‥◇‥◆
勤務先のケーキ屋は、普通電車に乗って7駅先にある。どの駅間も、次の駅までの所要時間はだいたい2~3分くらいだ。
最近の少し嬉しいこと。それは今乗っているこの電車の中での8分間の小さな日常のこと。
いつも次の駅から乗ってくる女性がいる。
昼間の決まった時間に電車に乗るということは、普通の会社に勤めている人ではなさそうだ。服装もカジュアルで、これからデートなのかなと思わせる可愛い装いだ。
もしかすると大学生なのかもしれないが、そこはかとなく感じる大人っぽい雰囲気からは学生ではないような気がする。
肩より少し下まである髪は、軽くウエーブがかかっている。
朝や夕方のラッシュ時と違って、昼間の電車はまあまあ空いている。この路線を昼間利用する人は少ない。毎日座って通勤できることはありがたいことだ。
次の駅、また次の駅と進むにつれ座席は埋まっていくのだが、僕が乗車したときはいつも8人掛けのシートは1~2人くらいしか座っていなくて、座席は選び放題だ。
座った時点ではたいてい、両隣は空いている。
さて、隣駅から乗ってくる女性は、なぜか、僕の右隣の空席に座ることが多い。僕も同じ車両のほぼ同じ座席に座ることが多いから、たまたまなのかもしれないけれど。
女性は、座席に座るとスマホを取り出し誰かに送るメッセージを打ち込む。
次の駅に着くまでにメッセージ送信を終えスマホをカバンにしまうと、ふっと息を吐いて目を閉じそのまま眠ってしまう。
◆‥◇‥◆
次の駅、
その次の駅・・。
女性の眠りが深くなってくると揺れに任せて僕の方へもたれかかってくる。
最初は僕の肩に女性の髪が触れるか触れないかの距離を保っているのだが、4つ先の駅を過ぎると完全に僕の方へもたれかかり重みを感じるようになる。
「重いなあ」
そう思いながら少し押してみると、女性は寝ぼけながら体勢を立て直すのだが、またこちら側にもたれかかってくる。
7つ目の駅に着く直前は、完全に女性の頭は僕の肩の上。
もう降りなくてはいけないので、少し強めに「すみません」と言いながら肩で彼女の頭を押す。
一瞬目を覚ました彼女は、申し訳なさそうに僕に軽く会釈をして、また深い眠りにつく。
そんなことの繰り返しで。
誰かと触れ合い、柔らかさと温かさを感じる。
お互いの腕と肩のあたりが近づくことで生まれる暖かで柔らかい空気に包まれているうちに、肩にかかる女性の重さを感じる事が、いつしか楽しみに変わっていった。
電車に乗り、次の駅に到着して扉があくと、女性の姿をつい探してしまう。水曜日だけは、その女性を見かけたことはないから仕事が休みなのだろう。
今日は火曜日。
きっと、扉があくと彼女が乗ってきて僕の横に座るだろう。
8分間の幸せが今日もまた始まる。
(とりあえず、完)