解釈とその表し方の許容
私は小学校の中の特別支援学級で非常勤講師をしていて、先日その小学校のある自治体の他小学校の特別支援学級と合同のスポーツ大会があり、スタッフとして参加した。
いくつかの小学校といくつかの中学校が参加し盛り上がった。中学校の生徒は、卒業した小学校の先生や後輩と久しぶりに会えたりして、先生も生徒も嬉しそうだった。通常学級よりも人数も少なく学級での過ごし方も違うので先生と生徒の繋がりもより親密なように感じる。
競技を見ていても、開会式、閉会式などを見ていても「いいなあ」と感じる場面が多かった。
それはなぜなのかと、後日自分で考えてみた。
それは「競技についてそれぞれの解釈の仕方が許され、それによって表れる身体の動きも許されているから」
かと思った。
通常学級での運動会だと、競技は「競う」ことが正しいとされ、競いたいか競いたくないかの意思表示は許されず、なぜ競わなくてはいけないのか、という問いに対する答えはなく、皆同じように「競う」ことが正しいとされる。
しかしこのスポーツ大会では生徒それぞれの競技に対する理解度だけでなく、「競う」ことについての理解度、競いたいかどうかというのもそれぞれ違うので、同質性が強制されていない。もしくは強制されていたとしてもそれを受け入れるかの自由は生徒たちに委ねられているように感じた。
かけっこ一つにとっても、「早く走って一番になりたい」子は一生懸命早く走るし、「競争したくない」子はゆっくり歩いているし、負けたくない子は負けたら泣いているし、参加しただけで楽しい子は順位など関係なく楽しそうにしている。「そもそも身体も特性も全員違う」ということが前提になっているので安易に順位などつけられない、ということが当たり前に共有されている。
ダンスが好きな子はばっちり振り付けを覚えて踊っているし、参加したくない子は参加したくないという意思を受け入れてもらっている。
通常級での式では、動かないこと、姿勢をピンとすることが正しいとされているので、そうできていない子を、注意する側に私もまわっていた。
しかしそもそも、式に対する解釈だってそれぞれのはずだ。そしてその解釈が身体の動きに表れることの何が悪いというのだろう。
ある事をやることが予定され、それに参加するのか、という部分で意思表示が許されるべきであるし、その後その参加の仕方についてもそれぞれの解釈が許されるほうがいいと思う。
なぜ、一斉に競わなくてはいけないのか、なぜがんばらなくてはいけないのか。
競いたいか競いたくないか、がんばりたいかがんばりたくないかはどちらが正しくてどちらかが間違っているということではなく、それぞれの解釈の違いでしかないのに、片方だけが「正しい」とされそれに従わないのは悪いこととされるのは、おかしいのではないか。
それぞれの解釈が許され、その表れが許される場所。
それがある場であればそこは「自分がいてもいい場所」になる。
自分がいてはいけない場所は、初めから「こうあらねばいけない」場所だ。
場所の倫理に自分を合わせなくてはいけない所。
教育の場というのは社会と地続きであるから、そういう教育になっているのは日本社会がそういう場所であるからだ。自分よりも場所の倫理が優先されるところでその価値観を内面化した子は、そのまま同じような社会でもやっていけるようになるだろうが、そうではない、「自分の解釈を優先する」人間を許せるだろうか?
自分の解釈を押し込めて場の倫理を優先させた人間は、それを「わがまま」と思うのではないか?
しかし、本当は誰もが「自由な解釈」を許されていいし、それについて検討されてもいいはずなのではないか。
そういう意味で、私はインクルーシブ教育について、通常級に特別支援級をどのようにして組み入れるかを考えるのではなく、通常級を特別支援級の中に組み入れ、「そもそも全員違う」を前提に進んでいく仕様にし、それと同時に社会もそうなっていかなければ、意味がないのではないかと思うのだ。
どちらかの存在を正しいとし、「通常」とし、そうでないほうを「障害」とする考え自体が分解され、「普通、通常」とは何なのかということについてもう一度検討したほうがよい。
そうなれば、だいぶ多くの人が生きやすくなるのではないか。それにはもちろん私も含めて。