母はいるのか。その前に私はいるのか。
電車の中にて
30代前半くらいの母親らしき人がベビーカーをひいて
中には赤ん坊、一緒にその母親の娘とおぼしき小学校3,4年生くらいの女の子。彼女らは扉の前らへんにいた。
女の子が電車の中で赤ん坊を覗き込もうとしゃがみこんだ。
母親らしき人は「こんな所で座らないでよ!」ときつめに叱った。
娘は「座ったんじゃなくてちょっとしゃがんだだけだよ!」と言い返すが
母親の怒りの声が強くかき消された。
傍から見たら「そんなに怒らなくてもいいのに」という感じだが
私はこの母親の怒りは純粋にしゃがんだことに対してではなく
「電車の中で座っている子ども(もう立てる年齢)に対してしつけがなってないという第三者の声」に答えるための「こんな所で座らないでよ!」
に思えた。
「私は電車の中でちゃんと立つようにしつけをしたのに、なぜあなたはそんなところに座るの!」という外部に対しての返答に思えた。
これは私もとても心当たりがあるものだった。
子どもに対しての怒りというのは、本当に純粋な怒りはほとんどないのじゃないかとさえ思う。
怒り、ではなくて、よくわからない「世間に声」に対する「大きな声の言い訳」のような気がしている。
「私はちゃんとしつけをしています。なのに、この子はこんなことをしているんです。だから今も私はちゃんと教育しています!」という姿勢が
「外でのキツめの叱り」になっている。
同時に「あんなに怒らなくてもいいのにね。怖い怖い」という声も聞こえている。「優しくない母」に対する批判も聞こえる。
そして「電車の中で座っている子ども(もう立てる年齢)に対してしつけがなってないという第三者の声」と「あんなに怒らなくてもいいのにね」の声はきっと同じ人達から発せられるのだろうと思う。
きちんと子どもをしつけていて、いつでも穏やかで優しい母、が世間では良い母とされる。そこに、それぞれの人間の個性なんてものは存在せず、「母」という記号の中で判断される。その中に多様性なんてものはない。
母親になるとそういう声が実際に聞こえるか聞こえないか関係なく、
存在するであろうそのような声が頭に鳴り響く。
そしてそれらの声に責められる前に先に行動しようとする。
それは「母親」の「自己」の「判断」といえるのか?
こうしなくてはいけない、という規範を内面化した時(女はそのような外側からの規範が子どもの時から年寄りになってまでその年代により細かくびっしりとある)、その時の判断、選択、その結果が本当に、「自己」の「判断」による「選択」で、「責任」であるのか?という問題がある。
男性にそのような縛りがないとは言わないが、こと子育てに関して母親に対する世間の目は厳しい。子どもの行動についての責任はほぼ母親にあるといった風潮は2023年現在でも変わらないように思う。
母親のイライラ混じりの怒り、理不尽なほど怒鳴られたことに対する娘の不満、それは本当にこの親子のものだけなのか?
私は彼女らのこのやり取りを見て自分を見ているような気持ちになったが、仮に母親にどのような言葉をかけようかと想像した時に言葉が思いつかなかった。
自分の「怒り」を持つことは難しい。
「欲望」もまた。純粋な欲望は貴重だ。
このような世界の中で
「私らしく生きる」なんて言葉は空々しく響く。
そもそも
「私」は存在するのか?という問いから始めないといけない。