302号室
電車の中でiPhoneのアラームが鳴り響いていた。一瞬自分のが鳴っているのかと疑ったけれど違う。まず夕方のこんな時間にアラームを設定したことなんてなかった。少しずつ大きくなっていく音。周りの人もきょろきょろしては持っているiPhoneに耳を当てて確かめている。
誰か、早く止めて。ざわついて、心拍数が上がったまま収まってくれない。そう願ったのにアラームは鳴り止まなかった。もう随分長く続いている。仕方なく聞いていた音楽をアンビエントミュージックからロックバンドのものに変えてみた。一瞬の空白にも耳がアラームの音を拾ってしまうのが嫌で、音量を上げる。びりびりと響くドラムと歪んだギターの音は一瞬で世界を変えてくれた。まだ戸惑いの残る電車内から意識を逸らして、窓の外を流れる景色に集中する。外はきれいな秋晴れだった。
こんなにきれいじゃなくても良いのに。思考が今朝のことにぐるぐると巻き戻っていく。
部屋を出ようとした時、あの人は「ひつじぐも、きれいだね」と笑った。
起こしてしまったかと驚いたけれど、その後に続く言葉はなかった。静かな寝息が聞こえる。振り返ってみると、ベッドの上にカーテンの隙間から朝日が差し込んでいた。そこにだけ、きらきらほこりが舞っているのが見える。なんだ、寝ぼけていたのか。ひかりが眩しいのだろう、顔をしかめて眠っているから思わず笑ってしまった。仕方なくカーテンを閉めてやる。そして、静かに部屋を後にした。
駅までの道、朝焼けに染まったひつじぐもが、悔しいくらいにきれいだった。あの人はこの空を見て言っていたのか。ふいにカメラがカバンに入っていることを思い出した。でも思い出すだけにした。シャッターは押せない。写真に残すのは違う気がした。
鍵を閉めてこなかったけどさすがにもう起きているかな。昨日わたしが作った親子煮を何とも思わず食べるんだろうな。流れる景色を眺めながらあの人のことばかりを考えてしまう自分が嫌になる。もう会わないと決めたのに。
曲が静かなバラードに変わった。あ、と声が出てしまう。向かいに立っていた女子高生が怪訝そうにこちらを見て、慌ててiPhoneをいじるフリをする。
この曲はいつもあの人が口笛で吹いていたものだった。料理をする時、お風呂に入っている時、髪を乾かしている時。癖なのか気がつくと口笛を吹いていた。いつも同じなのに、何の曲かは聞いてもにやにやしながら教えてくれなかった。まさかこのバンドの曲だったなんて。何かが急に込み上げてきて、視界が歪む。え、なんで今さら、と焦ったけど止められなかった。一滴、二滴と涙が流れてしまう。
あの人はわたしを好きじゃなかったし、わたしもあの人のことを好きじゃなかった。それだからあの部屋は心地よかった。期待や執着のない関係。おままごとみたいに生活をして、ふざけながら夜を重ねた。愛なんてそんな目に見えないものは必要なくて、ただひたすらに楽だった。
でもいつからだっただろう。無駄に広いダブルベットやピンクの歯ブラシに、少しずつなくなっていくわたしのものでない化粧水が目に入るたびに心がすり減っていくようになったのは。最初からわかっていたはずだったのに、許せなくなってしまった。いつの間にか執着が生まれてしまった。
だから、終わりにすることにした。何も言わずに。でもあの人もわたしがそうすることに気づいていると思う。わたしはもう連絡をしないし、きっとあの人もわたしに連絡をしない。さよならも必要ない。だって何も始まってなんかいなかったから。
新しい涙が溢れる。向かいの女子高生に気付かれないようにそっと拭う。大丈夫。人に気付かれないように泣くのは得意だ。背筋を伸ばして、流れていく景色に集中する。
いつのまにかアラームは鳴り止んでいて、降りる駅はもうすぐだった。