2024/11/1「無人駅」

実家の最寄り駅は無人駅だった。なんなら両隣の駅も、そのさらに隣の駅も無人駅だった。高校は2駅先だったので、毎日無人駅から無人駅へと電車に乗って通学していた。
電車はせいぜい1時間に1本。バスもほとんど通っていない。駅から徒歩で10分程度のところに住んでいたので特段困ることはなかったが、駅から遠い人は大変そうだった。

自家用車が普及した現代において、無人駅など別段珍しいものではないのだろう。むしろ日本全国を見渡してみれば、単純な数だけでは無人駅が多くを占めているのではないだろうか。東京に住んでいると、そういった現状を忘れそうになる時がある。電車は5分も待てばやってくるから、わざわざ時刻表を確認する必要もない。「短い10両編成」なるアナウンスにも、もう慣れてしまった。(実家の最寄り駅を通過する電車は2両がデフォルトだったのだ)

無人駅というのは、ある種の社会問題への批判をともなって語られることが多いように思う。利用者が少ない無人駅を廃止して、その残り少ない利用者の交通手段を奪う。多数決の原理に即した、極めて民主主義的な動向なのかもしれない。鉄道会社の経営状況を無視して、そこで利用者の生命線を奪うな、などと綺麗事を言う事が正しいのかは分からない。実際のところ、廃線にするならするで、なんらか別の交通手段を整えていく必要があるのだろう。高齢者の運転免許に関する問題も、同じような意味合いを含んでいるような気もする。いや、別の問題か?

一方で、無人駅という存在は、郷愁とか寂寥感とか、ある種の風情をともなって語られることも珍しくないような気がする。一方では、利用者が少ないのだから廃線にしろと言われ、他方では自然の豊かさとあわせて風情を感じる。なんという二枚舌。いや、同じ人が言ってるとは限らないけどさ。
僕も、東京の交通機関の利便性を多分に享受しているくせに、たまに実家に帰れば無人駅に風情を感じる者の一人だ。主語を拡大するようで恐縮だが、人間とはかくも勝手な生き物なり。

以下日記。
9時起床。即始業。
出社日だがタスクはすくない。昼にあわせて出社し、仕事をこなす。
19時前に退社して帰宅。雨の降る前に帰宅できた。飲酒。

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