2024/11/3「推敲」

思えばこの十数年、「推敲」をし続けてきた人生だったように思う。いや、もしかすると20数年に及ぶかもしれない。
推敲は校正や校閲とは異なる作業を指すと思う。校正や校閲という作業の主眼は、文章に含まれる誤りを正す、という事にある。一方で推敲の意味するところはもう少し広く、「文章を良くする」作業だ(と、少なくとも自分は思っている)。また、推敲を行うのは一般的に筆者自身になるはずだが、校正や校閲は必ずしも筆者本人だけがするものではない、という違いもあるだろう。

文章を書き続けて20年ほど生きてきた。特にここ10年ほどは、大学と大学院で6年、その後ライター・ディレクターとして4年ほど、とにかく文章を読み、書き、推敲し、校閲することをライフワークとして、そして生業として生きてきた。

推敲というのは終わりのない作業だと思う。文章を良くする、という作業に終わりはない。どれだけ推敲を重ねて、素晴らしい文章が書けたと思っていても、しばらく後に読み返せばどことなく違和感を覚えてしまう。より良くできるのではないか、という疑念が生まれてしまうものだ。そうした事情は、そもそも文章において理想的な状態や最高に優れた状態というものが存在しないからなのではないだろうか。
いや、存在しないということはないだろう。もし全知全能の神がいるのなら、その神の書く文章が素晴らしいものでないはずがないのだから。あくまでも人間に到達し得ないというだけで、最高に優れた、いわば完璧な文章というものはどこかに存在するのだろう。推敲という行為は、可能な限り完璧な、素晴らしい文章へと近づこうという不断の営みなのだ。

書き手の文章力に応じて、文章のクオリティには大きな差が生じるものだ。以前に書いた文章を見直した時に物足りなく感じるのは、自分の文章力が日々向上しているからだ、というポジティブな解釈をもって捉えることもできるのかもしれない。実際、そういった側面は大いにあるのだと思う。結局、生きている限り推敲という行為に終わりはない。それは、どれだけ文章力を高めたとしても到達し得ない領域があるというだけでなく、常に一歩先へと文章力を向上させられる可能性が秘められている、ということでもある。自分程度の文章力で、限界だの完璧な領域だの語ろうなど烏滸がましいにもほどがあるが。

推敲という行為を、僕は割と気に入っている。文章を読み返すたびに、どんどん違和感が失われていくのだ。「この表現の方がいい」「ここに読点を入れた方がいい」といった作業を繰り返して、徐々に文章が良いものになっていく実感を得られるからだ。もちろん、ある意味で終わりのない作業でもあると思う。それでも、文章を生業として生きていく以上、そうした向上心だけは失うわけにいかないし、失った時にはもうおしまいなのだと思う。

ちなみに、このnoteはほとんど推敲していない。公開前に一度読み返している程度だ。一発勝負の瞬発力というか、瞬間的な爆発力というか、そういったものに賭けてみたい媒体なのだと思う…というのは半分言い訳で、あまりに一本に時間をかけ過ぎると毎日の更新が億劫になってしまうだろうから、という理由もある。
定期的に公開済みの記事を推敲するタイミングを設けてもいいのだけれど、日記に近い位置づけでもある以上、あまり後から書き直すのもどうかと思うのだ。

以下日記。
10時起床。PCに向かって一日が終わる。明日は三連休最終日だが、どうするか特に決めていない。

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