「映画の損切り」は投資の比喩として妥当か。 ──「新米トレーダーの損切りに賭ける先輩トレーダーたち」という、二重の比喩について──
(追記:連ツイに趣旨をまとめたので、結論だけ読みたい方は上記を読んでください。)
『インベスターZ』で、投資部に入った主人公が、つまらない映画を先輩に見せられ、時間の無駄だと判断した主人公が席を立つ。実はそれは、「損切り力」を試す投資部のテストだった…という描写が、Xで話題になっている。
賛否両論、というよりは、否定的な意見が多いように思われる。かなり厳しく批判するポストも見かける。
「つまらない映画は、途中でさっさと席を立つ」は、投資の「損切り」の比喩として妥当だろうか。
結論から言えば、特に問題ないと思う。
それどころか、この話は、短いシーンながら、投資とは何かを二重の比喩で描いた、優れたシーンになっていると思う。
主人公がつまらない映画に見切りをつけることは、株の損切りの比喩になっているが、それだけでなく、主人公が映画館から出てくる時間を賭ける先輩たちの描写もまた、トレーダーたちの比喩になっているからだ。
まず前提として、ここでは、主人公が「どれぐらいサンクコスト(埋没費用)に捉われない性格であるか」を測っている。
サンクコストの説明として、「つまらない映画の途中で席を立つかどうか」は、代表的な例として挙げられる。
また、サンクコストに捉われると、合理的な判断ができず、損切りに踏み切りにくくなる。だから、損切りとサンクコストを関連させることに問題はない。
ゆえに、
サンクコストの説明に、映画を使う→問題ない
サンクコストと損切りを関連させる→問題ない
どちらも問題ない、となると思う。
映画館の比喩を使って、この話で行われているのは、「新米トレーダーが、下落する株に対して、どこで損切りの決断を行えるか」に対する、先輩トレーダーたちの賭けである。
新米トレーダーである主人公は、サンクコストに捉われず、見事にさっさと損切りをしたので、先輩たちは驚いたのだ。
以下、もう少し詳しく説明する。
サンクコストとは何か
まず、サンクコスト(埋没費用)とは何か。
「既に支払ってしまった・回収不能になってしまったコスト」
のことを指す。その時点で、もう取り返しがつかない費用やコストのことだ。例として、投資で失敗して出した損や、すでに購入した映画のチケット、超音速機の開発費、ギャンブルの負け分、何かをするためにかけた時間など、様々なものを挙げることができる。
このサンクコストは、もう取り返すことができない。にもかかわらず、人はしばしば、この過去の費用・労力・時間などを惜しんで、合理的な判断ができなくなってしまう。これを、サンクコスト効果や、サンクコストの誤謬と呼ぶ。
サンクコストについての説明で、「既にチケット代を払ったつまらない映画を、最後まで見るか」は非常に良く使われる例である。
この場合、チケット代がサンクコストに当たる。合理的な判断では、つまらない映画を見て時間を無駄にするのは損であるから、さっさと席を立つべき、とされる。しかし、人はチケット代というサンクコストがあると、「チケット代の元を取りたい」という考えに陥り、つまらない映画でも、席を立てないで時間を余計に無駄にする、という過ちを犯す。
また、サンクコストは投資において「損切り」を妨げるものとしても例に挙げられる。投資で予想が外れ、損を出してしまった時、損切りするべきなのに、損を確定することを恐れ、損切りできないことがある。この場合、含み損がサンクコストにあたる。既に失った損失に捉われて、さらなる損失の拡大を防ぐことができない。
主人公とサンクコスト
作中では、主人公が「どれぐらいサンクコストに捉われない性格であるか」を、つまらない映画から何分で席を立つかによって測っている。先輩たちは、その時間を予想する賭けをしている。(最下位が皆にラーメンをおごごる。)
サンクコストに捉われにくい性格であれば、つまらない映画で時間を無駄にしにくいだろうし、投資において損切りが速い、という可能性はあると思う。
なぜか作中では「サンクコスト」という言葉が出てこない。そのせいで、「映画」と「投資」が直接結びつけられているような印象を受けてしまうのではないかと思う。無論、両者は直接的には関係ない。あくまで、「サンクコストに捉われない性格だからつまらない映画でさっさと席を立つ」のであり、「サンクコストに捉われない性格だから損切りの決断が早いかもしれない」のである。「映画を途中で出ていくから投資の才能がある」わけではない。
先輩たちの賭け
投資部の先輩たちは、主人公が映画館から出てくる時間を予想して、賭けをしている。一番大きく予想を外した者が、全員にラーメンをおごる。
この賭けの描写について、「賭けが成立しないのではないか」とか「勝手に賭けの対象にされていて不愉快なシーンだ」というような意見が見られた。
しかし私は、このシーンは、投資というものの性格をよく表現した、とても良い描写だと思った。というのも、「主人公がどのタイミングで損切りするか予想し、賭ける」ことこそ、まさしく、トレーダーたちがやっていることそのものだと思うからだ。
つまらない映画に見切りをつけて席を立つことが、下落する株に見切りをつけて損切りすることの比喩になっていることは、すぐにわかると思う。
このシーンが優れているところは、その主人公の行動に対して、先輩たちが賭けをしていることも、やはり株取引の比喩になっている、というところである。
先輩トレーダーたちは、下落株をつかんでしまった新米トレーダーが、いつ損切りの判断を出来るかを予想し、賭けをしているのである。一番大きく予想を外してしまった者が、損失を被ることになる。
これは、株や相場が急激に下がった時に、初心者が狼狽し動けなくなるところを、熟練のトレーダーたちが刈り取っていく構図そのものだ。
主人公は、先輩トレーダーたちの予想に反して、見事に素早く損切りしたから驚かれた。
普通、新米は、持っている株が下がっても、ぐずぐずと決断に時間がかかったり、「下がったけどいい株だから」と訳のわからない理由で塩漬けしてしまったりする。
実際、一番予想を大きく外した=投資の下手な先輩が、新人の時も、一番長くつまらない映画を見ていた=損切りできなかった。しかも、そのことを、「つまらない映画だけどそこそこ面白かった=下落したけどいい株だった」と、損切りできなかった言い訳しているのである。
つまりは、「映画を損切りする主人公」だけでなく、「その主人公の決断のタイミングを予想する先輩たち」も、トレーダーの比喩になっているので、ここでは二重に比喩が用いられ、株取引とは何かを描き出している。
批判的意見の検討
見かけた批判的意見について検討する。
「つまらない映画を見ることを止めることと投資の上手さは関係ない。」
多かった意見。
これはその通りだと思う。ただし、作中の趣旨とはずれている。あくまで、両方に「サンクコストに捉われない性格」が関係しているというだけで、映画を途中で見るのをやめること自体と、投資の上手さに因果関係はないし、あるとも言われてない。(たとえば、飽きっぽいから映画を見るのを途中でやめる人は、別に損切りが上手いわけではない。)
また、そもそもサンクコストに捉われない性格だからといって、投資が上手いとも限らないと思う。
とはいえ、ここで問題とされているのは、「損切りの邪魔になるサンクコストへのこだわりを捨てられるか」なので、主人公はその基準はクリアしている。
「サンクコストの説明として映画を用いるのは不適切である。」
これは、不適切ではないと思う。少なくとも、作者の問題ではない。一般的に、サンクコストの説明には頻繁に「つまらない映画を見るのをやめるかどうか」という例が用いられており、作者はそれをそのまま使っている。例えば、Wikipediaの「埋没費用(サンクコスト)」の項目にも、映画館の例がそのまま出てくる。
ただ、「時間をそれ以上無駄にしないために映画館で途中退席する」というのは、例としては分かりやすくても、現実的には珍しいことだと思う。そのため、漫画でそのまま表現すると違和感があるかもしれない。
「最初はつまらなくても、最後まで見なければ本当にその映画がつまらないかわからない・傑作かもしれない。」
序盤、席を立ちたくなるぐらいつまらないのに、最後まで見ると傑作、というのは非常に稀なケースだと思う。そういう例がありうることは否定しないが、結局、最後までつまらない作品の方が多いのではないか。
それは、暴落した株がまた元の値段まで上昇することのようにレアケースであり、確率的に分が悪い。
そのようなレアケースに期待してしまうのが、まさしく損切りできない心理なのであるから、むしろ、「そのつまらない映画は、最後までみたら傑作かもしれないので、席を立つべきではない」という意見は、「人は損した時、確率の低いことに期待して動けなくなる」ことを示していると思う。
そのため、この批判は逆に、「さっさとつまらない映画に対して席を立つこと」が、「分の悪い賭けに期待しない適切な損切り」の比喩として妥当であることを示してしまっている。
「つまらない映画を見ることも意義がある・人生の糧となる・勉強になる・話のネタになる。」
一般論として部分的には正しいと思うが、作品への批判としては当たらないと思う。
投資で損することにも、意義があったり、勉強になったり、人生の糧になったり、話のネタになったりするだろう。だが、それは損した結果から学びを得るのであって、学びを得るために損するのではない。
つまらない映画だった「けれど」、学びを得る・話のネタになるのであって、普通は、学びや話のネタにするためにつまらない映画を見るのではない。期待してみた映画がつまらなかったのだ。
もっとも、一部の人は好んでつまらない映画を見るし、創作する人がわざとつまらない映画を見て分析する、ということもあると思う。
しかし、それは特殊な例であるし、投資につながる姿勢ではない。
主人公は投資部の部員であって、映画同好会のメンバーではないので、別につまらない映画を我慢して見て学びを得なくても良いと思う。
「『つまらない』は人それぞれ相対的なものであり、『絶対的につまらない映画』などないので、何分で出てくるかの賭けが成立しない。」
主人公が主観的に「つまらない」と思ってからどれぐらい早く席を立つ決断ができるかが賭けの対象になっているのであって、「つまらなさ」が相対的であることとは、別に矛盾しない。
投資部の先輩たちは、主人公の性格、選んだ映画のつまらなさ、映画との相性なども観察し、それらを総合的に判断して賭けをしているのだと思う。(たとえば、その映画をそこそこ面白そうだと判断する人は、長めの時間に賭けるだろう。)
投資と重ねて考えるなら、先輩たちのやっている賭けは、「新米トレーダーが下落する株に対して、どこで損切りの判断を下すか」である。その株がどれぐらい落ちるか(どれぐらい映画がつまらないか)と、新米トレーダーがいつ損切りを判断するか(いつ席を立つか)は、ともに不確定であり、先輩たちはその両方を推測しながら賭けをしている。
ゆえに、つまらなさが相対的でも、賭けは成立する。
「つまらない映画に面白さを見いだせない主人公には『面白がる力』が足りていない・つまらない映画を楽しめる方が人生楽しい。」
そうかもしれないが、漫画の主旨には関係ない。
主観的に「面白くない」と思って、チケット代というサンクコストに捉われずに素早く席を立てるかどうか、という話なので、主人公が映画を鑑賞する力が低いかどうかは問題ではない。
「映画館で途中で席を立つ奴がうざい・嫌い・迷惑。」
これは同意できる。が、漫画の主旨とは関係がない。
まとめ
・このシーンでは、主人公の「サンクコストに捉われない性格」が試されている。
・つまらない映画の席をさっさと立つかと、株の損切りが早いかには、どちらもサンクコストが関係するとされる。ゆえに、映画に見切りをつけることを損切りの比喩にするのには妥当性があると思う。
・主人公がつまらない映画に見切りをつけ、席を立つまでの時間を予想し、賭けをする先輩たちの姿は、下落株をつかんだ新米トレーダーが、損切りを決断するまでの時間を予想し、賭けをする先輩トレーダーたちの比喩になっている。
・短いページ数に、この二重の比喩が仕込まれており、優れた描写だと思う。
以上です。