怪物、見ました。長野県はもっとエグい
僕はこの映画を見ていて、みなとくんが星川ちゃんと一緒に廃電車で基地作りをしていたときに、僕も同じように星川ちゃんに恋をしてしまった。
安藤サクラと瑛太、それぞれの主観パートはほぼコントだったから僕にとってはどうでも良かった。映画としては、安藤サクラと瑛太の世界観を偏差値50として演出し、星川ちゃんxみなと君の世界観とのギャップをえぐり出す。それが機能しているといえば機能している。でも、僕はあの大人たちの世界をぶっ壊したい(でもぶっ壊せない)。なぜなら、普通の恋をしている人たちを責められないからだ。いじめを見てみぬふりをするほとんどの5年2組のクラスメート達は、その壊さなければいけない大人たちと同じだ。クラスの隅で漫画を読んでいる女子からなんとかしないと大人の世界は揺らがない。でも、それは不可能だ。そして、たとえ「怪物」を1800円払って見ても僕らの大人の世界観は揺らがない。
だって観客たちは結局、みなと君の主観からしか世界を見ていないからだ。みなと君は星川ちゃんと遊んでいるうちに好きになってしまって、それを恥ずかしくて打ち明けられずにいる。でも、それは同性愛とかマイノリティーとかあんま関係なくて、いじめられていた弱い子を守る、それは力のある男が力のない女を守る、という大昔の構図にそっくりだからだ。みなと君は彼の父親(ラガーマン)と比べてしまって、自分が男らしくないと思い込んでいるかもしれないが、みなと君が星川ちゃんをいじめから守ろうとした行動の根幹はその男らしさが影響していると思う。それは大昔の人間の男女観と似ていて、安藤サクラと瑛太たちの世界観の内側で起こっていることだ。それは観客の世界観の内側とイコールの関係だ。
ここまで書いて少し疲れたので、また元気なときに続きを書いていこうと思います↑
怪物、諏訪ロケということで近所で撮影されていて見慣れた風景ばかりでした。親近感を覚えましたが、もしかしたら大昔の世界観なのは田舎のムラ社会だけで、都会ならもっと多様でキラキラした世界があるんじゃないか?と思ってしまいました。"この鬱屈した世界はムラ社会のせいなんだ、だから若者の地方離れが進んで東京に若者が集まるんだ。そうか!"と納得しかけましたが都会も都会で人工物と人間関係しかない世界はやっぱりムラ社会なんだよなと、当たり前のことを当たり前に思い直しました。
僕も今住んでいる長野県、実家住まいなのですが、この映画のみなとくんのように"走行中の車から飛び出して星川君に会いに行く"どこか違う世界に行かないとダメ人間になりそうで怖いな。いやもうダメ人間だよな……動けよ!!