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陰謀論者の質が下がってきている件について

 質とか量とか以前に、陰謀論者はいるだけで困りもので、それを本人がじかくする暇すら与えないのが余計にたちの悪い流行り病のようなもので、なかなか根絶とはいかないのが某病原菌のようなものであります。
 
 さて、今の彼らの質について考えてみました。僕が陰謀論にハマっていたころは、さも映画を見るような感覚で、リアル世界なのに映画のようなパズルのピースがきっちりハマる、例えるならばノーラン作品のような美しさがあったと、当時の僕は記憶しています。そしてそこには美しさだけでなく、ある種の意思に満ちていました。かなり美化していうなら、僕らは1人ぼっちなんだという強い確信から起こる怒りのようなものでした。僕が陰謀論に耽溺していたころは、もちろんインターネットはありましたが、それで共通の話題を持つ者同士つながりあうなんてことはしなかった。単なる都市伝説で、単なるリアルの中のちょっとした嘘なんだけれど、もしこんな巨悪があったら僕らは書を捨てて街に出るきっかけになった。原動力になったはずのものでした。
 
 でも今は違うように思えます。すぐに他者とつながります。同じような話題を持つ人とつながるためのスクリーニングの機能でしかない。そこにはサノスのような「切実さ」がすっかりなくなってしまいました。サノスのような人口を無作為に半分にしてしまえという、とんでもない考えだったとしてもマジならマジで美しいんです。

 怒りは原動力になります。エンジンはガソリンが必要なように、モーターは電力が必要なように、人には怒りが必要です。激怒して、誰かを𠮟りつけるための怒りではないです。共有するための怒りでもないです。僕の思う怒りとは、1人で抱えて悩んで、引きずりつづけるものです。誰かと共有してしまえば、打ち明けてしまえば楽になるかもしれないけれど、それではサノスにはなれない。誰にも共感されないかもしれないけど、スクリーンの世界の中ではアベンジャーズの抵抗で死んでしまうかもしれないけれど、僕のような画面の外側という、サノスからしたら別世界の人を励ますことができるかもしれない。サノスがいたから、アベンジャーズがいたんです。陰謀論には、そのポテンシャルがあった。

 もうこれ以上、陰謀論まで取り上げないでくれ。陰謀論くらい一人で楽しめよ

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