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宝塚花組・ライブ配信「舞姫」で感じた時代の限界と数秘術から見た森鴎外


ポスターの白い軍服が素敵です

聖乃あすかの圧倒的な美しさに魅せられる

 5月14日(日)15時からの宝塚花組・バウホール公演の『舞姫』をライブ配信で視聴しました。時間が経ちましたが、リマインダーとして感想を書いておこうと思います。

  正直、最初は『舞姫』という演目に興味が持てなかったのですが、スカステの映像を見て目が釘付けとなってしまいました。どこに惹きつけられたかといえば、やはり白い軍服を身に付けた聖乃あすかの圧倒的な美しさと気品なわけですが、部分的な映像を見ても、脚本が良いのがわかりました。

植田景子の脚本は『アンナ・カレーニナ』と並ぶ傑作

 脚本・演出は植田景子先生です。個人的には『アンナ・カレーニナ』と並ぶ傑作だと思います。景子先生は小劇場向けの作品に質の高いものが多いですね。よく短編を映画化したものは傑作が多いと言いますが、『舞姫』もすごく短い短編。すぐに読めてしまいます。といっても、今となっては古語に近く、かなりハードルは高い。その意味で、舞台化されたは喜ばしいし、今回の再演も意義のあるものでした。

ドイツで本当の自分に目覚めた豊太郎

 『舞姫』は鴎外の実体験をもとにした小説です。国費留学生としてドイツのベルリンに留学していた太田豊太郎が街で貧しい踊り子のエリスと出会い、恋に落ちる。エリスは父親を病で亡くし、母親から葬式代を捻出するために、劇団の座長に身を売れと脅されている。それくらいなら死んだ方がマシだと嘆くエリスに同情した豊太郎は、金の腕時計を渡し、「これを質に入れてお父さんの葬式を出し、質札を私の家へ持ってきなさい」というのです。
 
 エリスは17歳くらいの碧眼・黄金色の髪をした少女で、その美しさは形容し難いほど。豊太郎は一目惚れしたわけです。彼は早くに亡くなった父親の分まで頑張れと言われ、学問一筋。帝大を優秀な成績で出て、軍隊の法律を勉強するために留学したけれど、本当は文学や芸術が好きで学びたい情感豊かな青年です。ドイツにきて初めて家族からのプレッシャーから解放され、街頭でキスしたり、抱き合ったりする恋人たちを見て、ヨーロッパは自由でいいなと思い、自分は太田豊太郎という人間を演じてきたことに気づくのです。近代的自我の目覚めです。

情け深く純粋な豊太郎は聖乃あすかにピッタリ

 豊太郎を演じる主演の聖乃あすかは、もう少し背が低ければ、トップ娘役間違いなしといった美貌の持ち主です。しかもフェアリータイプのほんわかした雰囲気で、全身から優しさが滲み出ています。なので、情け深く純粋な豊太郎にピッタリなんですね。これがとても重要なポイントです。小説だと誰もが「クズ野郎」と呼ぶほど、後にエリスを捨てる豊太郎の行いは噴飯ものです。ですが、舞台の豊太郎は良い人で、好きにならずにはいられません。ただ、最初の方は声が掠れていて、最後まで歌い終えることができるかハラハラしましたが・・・。

 『うたかたの恋』と比較すればわかると思いますが、柴田侑宏先生の作品は、セリフが多めで、その間にちょっと歌が挟まるという構成です。それに対して『舞姫』はかなり歌の割合が多い。主役は歌いっぱなしです。3番手くらいの人が毎日熱演していると、よほど発声が良いか、声帯が強くないと、11日間でも大変なのかもしれません。トップになるには乗り越えるべき課題でしょう。

 さて、豊太郎はエリスと出会ってどんどん精神が解放され、行動も大胆になっていきます。舞台では侑輝大弥演じる私費留学生の画家・馳芳次郎とその恋人ミリィに豊太郎がエリスとの馴れ初めから親しくなる過程を語る場面があるのですが、それがとてもテンポよく、楽しい。エリスは踊り子で、主役の2番目に良い役で舞台に立つと言うと、「それなら、毎日でも見に行かなければ!」とノリノリで喜ぶ豊太郎。歯止めが効かない自分を楽しむ様子を聖乃あすかが輝くような笑顔で演じていました。

画家・馳芳次郎の侑輝大弥は迫真の演技で感涙を誘う

 ちなみに、侑輝大弥は迫真の演技で、素晴らしかったです。彼女は堂々としていて、シャープで丹精な顔立ちなので、芸術家がよく似合います。ミリィの咲乃深音ちゃんは101期生で娘役2番の成績で入団した人で、演技も歌も上手い。芳次郎への愛が切々と伝わってきて、この二人の最後の演技は感涙ものでした。

美羽愛のエリスの本質を掴んだ演技が秀逸

 エリス役の美羽愛は演技力があり、外国人の少女にぴったりのアイドル的な容姿の持ち主です。歌が弱いと言われていますが、気になりませんでした。エリスは豊太郎や日本を理解しようと努力するのですが、ベースに「命と愛が一番大事。それ以上に大事なものってあるの?」という価値観があります。豊太郎の母親が息子を諌めるために自害するのですが、その本意も完全には理解できません。彼女はエリスという人間の本質をよく掴んで表現していました。

 豊太郎とエリスが二人で過ごす場面で一番秀逸なのが、エリスの誕生日に日本の舞扇をプレゼンントし、豊太郎が自らエリスの手を取って、「かなめ返し」を教えるところです。美男美女(本当は美女二人ですが)が重なり合い、美しい舞扇を手にもち扱う様子は本当に優美で、一幅の絵のようです。こんな場面は原作にはありません。

相沢を演じた帆純まひろの好演がエリスの悲劇を際立たせた

 森鴎外がドイツに留学したのは1882年(明治15年)です。まだ江戸の尻尾が残っているような時代です。日本の普通の男は見劣りして、ドイツでは相手にされません。それが現地に溶け込んでサロンでダンスを踊ったり、ドイツ人の少女と恋愛しているのだから、軍隊の上司も留学生仲間も内心は嫉妬の塊です。結局、上司の黒沢玄三(紅羽真希)の悪意によって豊太郎に帰国命令が出されます。それを拒否した豊太郎は免官され、エリスの家で同棲。

 親友の相沢謙吉(帆純まひろ)の紹介で新聞社で翻訳のアルバイトをして糊口をしのぐ生活が始まります。紅羽真希は徹底した悪役なのですが、ハマり役でした。この人の感覚は、当時の日本人を象徴していると思うので、豊太郎と黒沢の対立は、実は豊太郎と封建的な日本との対立に思えます。

 相沢は自分も次期首相と目される天方大臣の秘書を務める秀才ですが、豊太郎の才を惜しみ、将来を案じて天方大臣を紹介します。ロシアにフランス語の通訳として同行した豊太郎は大臣に気にいられ、一緒に帰国して自分に仕えてくれと言われるのです。この時代、円の価値は低く、自費で帰国はできません。このチャンスを逃したら、画家の芳次郎のようにドイツで野垂れ死にの確率が高い。ロシアに行く前、エリスの妊娠を告げられた豊太郎は、原作では気を失って倒れるほどに悩み抜くのですが、帰国の決意を固めます。相沢から手切金を渡され、別れを迫られたエリスはショックの余り子供を流産し、発狂してしまいます。その様子を見た相沢と豊太郎は罪の意識に苛まれながら帰国の途につくのです。

 相沢役の帆純まひろは、親友思いの良い人の雰囲気を醸し出していました。相沢は物語の方向性を決めるキーパーソンなので、彼女の好演が『舞姫』のクオリティを押し上げていたと思います。この物語は、相沢が豊太郎の人生に介入して悲劇、しなければもっと悲劇なのです。どうせ悲劇なら、貧しい恋人を捨てて、一人だけでも栄光のスポットライトを浴びた方が良いということです。相沢が善人であるほど、エリスの悲劇が際立ちます。

『舞姫』が語る時代の限界と個として生きることの難しさ

 この舞台を見ていて感じるのは「時代の限界」です。明治時代、国際結婚で幸せになることは不可能に近い。先進国の欧米と後進国の日本の組み合わせでは、欧米には日本人の居場所はなく、日本には欧米人の居場所はない。ただ、期限の決まったお客様としての滞在なら話は別です。豊太郎も日本のエリートとして国費留学生の身分でいるときは、恋に没入できたのですが、経済と肩書の両方を失っては、エリスの妊娠も重荷でしかありません。かといって、エリスを日本に連れて帰っても豊太郎のお荷物になるだけだし、誰からも歓迎されない彼女も不幸です。

人に助けが受けられない場所で人生の成功はない

 豊太郎が上司に「恋愛は自由意志に基づいてするものです」というセリフがあるんですね。個人の恋愛におまえが口を挟むのはおかしいと抗議しているわけですが、実は「個人」と言うのが曲者です。本当に個人として自由であろうとすると、時として「糸の切れた凧」状態になってしまいます。実は現代においても、同じではないかと思うのです。人は人によって生かされているのであって、人間関係の築けないところでの成功はありえません。それに気づいた豊太郎は、自ら不自由な日本の家族制度や軍隊のしがらみの中へ戻っていくのです。

本当に愛せる人に一人でも出会えた人生は意味がある

 『舞姫』は深く愛し合いながら、決して結ばれることはない、若い男女の悲恋物語です。ですがここで肝心なのは、どんなに苦い思い出でも、贖罪の想いを生涯抱き続けても、豊太郎はエリスを愛したことを後悔はしていないと言うことです。恋は落ちるもので、誰にも止められません。自分が本当に愛せる人に生涯一度でも出会えたこと、運命によって巡り合った女性を自分の意志で愛した経験、それこそが生きたことの証なのです。人生の充実は損得ばかりにあるのではないし、傷つかないことにあるわけでもないのです。

 宝塚の『舞姫』から受ける感動は、それが全キャストの熱演によって、見事に表現されているからでしょう。

鴎外は与えらえた数字通りの人生を歩んだ人

 占い師として1862年2月17日生まれの森鴎外(森林太郎)を数秘術で見てみると、納得することが多々あります。鴎外はライフ・パス・ナンバー(人生の行程数)が「9」で「広い視野と利他の精神に富み、自分を超えた社会や人類などに貢献する」人生を歩む人です。その行き着く先、ディスタニー・ナンバー(運命数)は「6」。家族、愛、奉仕のナンバーです。鴎外は41歳で18歳年下の志げと見合い結婚しました。志げは美貌の妻で、茉莉、不律、杏奴、類という二男二女をもうけ、鴎外は子供たちとても可愛がったそうです。志げは母峰子の勧めた女性でしたが、峰子と不仲でした。志げは『舞姫』の主人公に憧れて嫁いだそうなので、エリスのように鴎外に惚れ込み、愛に生きるタイプの女性でした。親子ほど年上の鴎外は、妻のご機嫌をうまくとりながら、家庭の平和を守っていたようです。「6」のバイブレーション通りの後半生を生きたと言えるでしょう。

 鴎外が結核で60歳の生涯を閉じる時、果たして脳裏に浮かんだ女性の顔は誰だったのでしょうか。彼にとって女性とはどんな存在だったのか、舞台『舞姫』を見て、そんなことを考えさせられました。



 

 


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