私的空間と公的空間の境界線
(何かを考える思考力、それを続けられる思考体力がなくなって久しいが、日常で感じたこと、違和感について、just an idea として書き残しておくことを試みる。いつか訪れると信じている余力が生まれた時にでも、編集し直して別のフォルダに振り分けられたらなと思う。)
現在の時刻は午前4時35分。六畳の部屋いっぱいに鳴り響く鼾に眠りにつくことができない私は、ここ数週間の不快感について思考を巡らせる。特にここ数日は、3倍ほどの重力が私の頬にのしかかる。笑顔を辛うじて作れるように(いや本音を言えば、自分の不機嫌が顔にでないようにが精一杯だ)顔の筋肉に全神経を集中させ、目の前で繰り広げられる、視聴者のいない愛の物語と闘っていた。’Midsommar'(2019)と、視聴率を測ることが不可能なこの物語は、強烈な不快感を与えるという点だけでなく、監督の欲望充足のためだけに存在しているという点でも類似している。さて、1ミリ垂れ下がった私の頬と引き換えに得た戦利品は二つ。一つに、「不快」という状態がどのようなものか繊細に感じることができたため「不快感の描写」に一歩近づけたこと。一つに、「私的空間と公的空間の境界線」について改めて考えるきっかけができたことだ。
私的空間と公的空間の境界線。時代によって、場所によって、立場によってその境界線は変わるものであり、二元論では語れないのだが、これら二つの空間の境界線の曖昧さに引きつけられる。例えば友人カップルのイチャイチャは、私的領域の公的領域への侵入であり、時に悍ましさを伴う。一方、会社による従業員のプライベートへの過度な干渉はベクトルが逆になる。フェミニズムの文脈においては、公的に語られるべきでないものの公的化に対する批判、つまり公私分離の原則のもとで権力が隠蔽されるとして、二つの領域の分離が問題視される。また、お隣韓国では私的空間が、これは感覚的ではあるが、日本よりも広範囲を対象とする。”우리"と「私たち」のニュアンスの違いが分かればこれについては少しは理解できるだろう。
(….to be continued)