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自明の理、をなぜわざわざ言葉にするのか
一昨年、通信教育で「JADP(日本能力開発推進協会)認定ハラスメント対策マネジャー」なる資格を取った。芸能・芸術の世界でいくつものハラスメント事案が顕在化して、いくつかの団体や劇場がポリシーを出したり研修を実施したりという動きが出始めたころである。
ハラスメントはよくない、なんてことはみんなわかっていて、わざわざポリシーを出したり講習をやったりしないと浸透しないものなのか。言われなくてもわかることを言うのは、相手をバカにしているようで失礼なんじゃないかという疑問があった。そんなこと、言われなくてもわかってるよ、さすがにそのくらいは知ってるよ、と、気分を害するひとが出るんじゃないか。そのくらい、私にとってハラスメントは「当たり前に悪いこと」であり、「すべてのひとがやめるべき」だし、それに反対するひとなどあり得ないと思っていた。ただ、無自覚にハラッサーになってしまうことがあるし、ハラスメントを恐れすぎて活動が委縮してしまうこともあるし、そういう「ハラスメントはダメ」はわかった上での話はしておいた方がいいよね、ということは、講習には意味があるかも。でもポリシーは当たり前すぎて本当に必要?なの??みたいな。
この「当たり前すぎて本当に必要なのか」という話について、「そもそも当たり前じゃないかも」というスタンスで伝え続けなくてはいけないのだ、という思いにいたったのでまとめておきたい。
観劇マナー問題
最近、観劇中のおしゃべりが「あり」だと思っているひとが少なからず世の中に存在する、というネットニュースが出た。作り手からしたら仰天である。え、それって説明しないと本当にわからないの?ちょっと考えたらわかるというか、ダメなのはわかってるけどやっちゃうって話じゃなくて??これって、誰かに教わったから気をつけることとかじゃなくて、応援上演的なものとかライブショー的なものとか特殊な場合をのぞいて「演劇とは音を立てずに観る」ものだ、と思って生きてきたのだけど。衝撃だった。
私は職業柄、公演公式サイトに「よくあるご質問」とか「Q&A」とかを載せる立場にある。「気をつけるべき観劇マナーはありますか」といった項目に「上演中の私語」を書きながら、本当にこれって必要?書かないとわからないの??むしろ書くことが失礼じゃない???と思っていた。上演時間だとか車椅子ユーザーの方の連絡先とか、あるいはお手紙プレゼントお花についてのアナウンスを書くのはわかる。そりゃ公演ごとに異なる条件、ルールは明示しておくべきである。が。後ろの席のお客さんの視界を遮るようなまとめ髪とか帽子とか、ストレートプレイで応援グッズの使用とか、ほんとに言われないとわからんのか…?と思いながら書いている。
でもこれ、さっきのニュースが出たってことはわからないってことだから、書いておく必要があるし呼びかけ続ける必要もあるってことなんだなぁ。上演中の私語は、周りのお客さまへのご迷惑もだけど、なにより同じ空間で芝居をしている俳優の集中も削ぎかねないし、作品を壊しかねないものである。映画と違って生身の人間がその場で演じていることに思いをいたらせたら、客席で音を立てる、ましてやおしゃべりするなんて、できないと思うんだけどな…。
書いていて、劇場前の滞留問題を思い出した。歩道をふさいで通行の妨げになるのは迷惑+危険だから注意するのだけど、悲しいくらい話を聞いてくれないお客さんなんかザラだし、劇場敷地内じゃなくて公道なのになんの権利があって注意しているのかと言われて絶句したこともある。公道だから注意している、のだけど、もはや、なんて説明したらいいのか…公道だから滞留しないでほしいし、公道だから劇場へのご来場者以外の往来も普通にあるので危ない、のだけど…。ここまで言ったら「そんなこともわからないと思ってるのか」って逆に怒られそうなくらい基本的なことでも、伝わっていない前提で発信し続けなくてはいけないんだな、と痛感した経験である。
世界中の「当たり前なのに当たり前じゃないこと」
私の職場に限った話だけでも枚挙にいとまなし、なのだけど、そもそも常識を疑ってかからねばならないのは世の中全体の話なんじゃないか、とは悲しい話である。戦争は避けるべきもの、ということに反対するひとなんていないと思っているのに、世界のどこかで今も戦争は起きている。明らかなデマだとわかるような発言を繰り返すひとが、なぜか支持を集めて選挙で影響力を持つ。ねぇ、本当の本当にわからないの?
もはやどうしてわからないのかがわからない。ちょっと考えれば、想像すれば、わかること、なんじゃないのか。
残念ながら、本当の本当にわからないひとたちもいるってことだ。かつては第二次世界大戦など信じがたい人種差別、人権侵害が大手を振ってまかり通っていた時代・国があるわけで、世界レベルの悲劇、惨劇が歴史として学べる現代にありながらも争いも差別もいまだ現存しているのだ。ひとは歴史から学べるはずなのに、歴史は繰り返している。ひとは悲しいほど愚かで学習能力が足らない。
ここまで書いて挫けそうだけど、つまり、やっぱり、普遍的な常識だと思っていることでも、当たり前だから説明はいらない、とはならないってことなんだな。
翻ってハラスメントの話
ここまでつらつら書いて、ハラスメントのない現場がよい、ということに反対のひとはいないだろう、というスタートからして、それすら、意識のすり合わせが必要なのかもしれない、という話につながってきた。
なんでハラスメントは防止しなくてはいけないのか。万が一起きてしまった場合、なぜ解決しなければならないのか。
それは人権の問題だからである。よく、「時代が許さなくなった」みたいな言説を見聞きするのだけど、今も昔も他人の尊厳を踏みにじって許されることなどない。ただ、かつてはそれを咎めるひとがいなかった、あるいは咎めることができるひとがいなかった、声が大きくてちからの強いひとがやっていたり、「おもしろいものを作る」ことが免罪符になったり。いずれにしてもそれがおかしなことだとわかったから、今がある。こころあるひとたちが変えようと動き、多くのひとが賛同して、自分事として考えるようになった今があるのだ。
演劇をつくるために集まっているひとたちの目的は「演劇をつくること」で、よりよい創作を阻害するものだからハラスメントはやめよう、という論もある。私もそうだと思っていた。だけど、実は、そうではないんじゃないか。演劇をつくろうがつくらまいが、ハラスメントはやめよう。
ハラスメントによって生じるリスクをまとめたスライドを作りながら気づいてしまった。たとえここに書いたような悪影響が生じなかったとしても、ハラスメントはダメ。ハラスメント対策は「やったらいいね」というプラスアルファの話ではなく、「やってはじめてゼロベース」な常識の話である。そして、常識を常識にするためには、「当たり前なんだからわざわざ言わなくてもいい」とか「言わなくても反対するひとなんていない」という発想は通用しない。
正しいことを正しく共有するために
「これはさすがにわかるだろう」という勝手な期待はせず、ちょっと考えれば、想像すれば、わかってくれるひとがいたら、それはとてもラッキーなことだと肝に銘じる。私にとってどんなに「疑いようなく正しいこと」であっても、すべてのひとにとっての「自明の理」にするのは不可能かもしれない。だけど、せめて一緒に演劇を作る座組のひとたちとは「人権はかけがえのないものだ」と共有したいし、もっと広い意味で一緒に演劇を作っている演劇界のひとたちや、作ったものを共有する客席のひとたち、そして演劇界も内包する社会を構成するひとたちとも、「互いを思いやること」は常に必要だとわかりあいたい。
国内を見ても海外を見ても絶望しそうな報道があふれているけれど、それが愚かであることを知っているひともちゃんといる。伝えなくても伝わるだろうっていう期待は一度手放すとして、伝えたら伝わるかもしれないという希望はしっかり握っていよう。