Black Lives Matterで思い出したこと
25年くらい前、アメリカ西部にある小学校に通っていた。同じ学校には、ブロンドヘアに青い目の子、アフロヘアに黒い目の子、アッシュヘアに緑の目の子、くりくりの赤毛にそばかすのある子、黒いサラサラヘアに茶色い目の子、いろいろな肌の色をした、いろいろなバックグラウンドを持った子がいた。もめごとやけんかもあったけれど(どこの小学校にもあるよね)、おおむね平和に楽しく過ごしていた。
最近のBlack Lives Matterのニュースに触れるごとに、あの同じ学校に通っていた子達は、今頃どうしているんだろうと思いはじめた。もしかしたら、警察官に命を奪われた人が、あるいはその命を奪った警察官が、大声で叫ぶデモの参加者が、あるいはそれを止める機動隊の中に、私が知っている彼らがいるのかもしれない。そう考えるとなんだかいたたまれない悲しい気持ちになってくる。
私たちは知らないうちに他人の特徴にラベリングして、その人の性質を決めつけてしまう。そして、その特徴にヒエラルキーをつけて、自分が優位であることが自明になれば、見下した態度をとることが正当化されたような気になってしまう。たとえ、過去に同じ環境にいろいろな人種(信仰、主義、趣味等あらゆることが含まれると思う)の人がいたとしても、深くかかわり合うことがなければ、きっとそのラベリングされた性質は大人になってもなかなか変わらないままのだろう。
どれだけ簡単に外国に移動できるようになっても、どれだけパソコンやスマートフォンで外国から発せられる情報に触れることができるようになっても、埋め込まれた(あるいは思い込みたい)性質やヒエラルキーを払拭することはかなり難しいみたいだ。
それでも、ずっと見え隠れしていた人種差別の問題について、ファッションブランドやスポーツチームがきちんと向き合い、改善に向けて動いていこうとしているSNSの投稿を見ると、とても勇気づけられる。だって、私たちは企業やチームで働く人である前に、ひとりの人間だし、人種は生まれ持ってのことであって、人に見下されるための道具ではないから。
そういえばアメリカに関連する言葉として、「人種のるつぼ」とか「自由の国」とか「アメリカンドリーム」っていうものを最近めっきり聞かなくなったな。どこにいってしまったのかな。