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ずっと誰かといなきゃだめ?

 先日の「Skyrocket Company」(TOKYO FMのラジオ)のメッセージテーマは「友だちどうやってつくる?」だった。

 最近、映画を観ていると気になるのは「独りじゃだめだ!」と言わんばかりに、孤独な登場人物に仲間ができる展開だ。「ひとりじゃない」「仲間がいる」—確かに、どれも感動的であり、一人で寂しそうにしていた人物に友人ができるとこちらも涙ぐむ。でも、ひとりでいたい時ってないだろうか。
 そもそも「ぼっち」だとか「パリピ」だとか、なんでこんなに極端に二分してしまうんだろう?と思う。私は一人が大好きながら、友人がいなくて寂しいと感じることもある。多くの人と話してわくわくするときもあれば、一人でいることに心から安堵する日もある。「一人で過ごす人は寂しい」という決めつけも、「遊んでばかりいる人は軽薄だ」という見下しもどっちも嫌いだ。「ぼっち」でも「パリピ」でもないし、どっちの要素も自分のなかにある。「陽キャ」「陰キャ」もそうだが、こういう要素は一人の人のなかに複数あるんじゃないだろうか。若林正恭のエッセイ『社会人大学人見知り学部卒業見込』に、平野啓一郎の小説のことが書かれていた。その小説『ドーン』には「ディヴ(分人)」という言葉が出てくるらしい。会社にいるときの自分と恋人といるときの自分が違うように、場所や人間関係で自分は変わる、ということだった。『ブラスト公論』でも、「自分」というのは周りの人との関係性で変わると話していて、なるほどと納得したばかりだ。だから友だちの前で陽気に振舞う自分も、職場で静かにしている自分も同じなのだ。
 だから解釈不一致でもいいんじゃない?孤独と仲間がいる、を行ったり来たりするのが心地いいんじゃないだろうか。

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