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ラストへの違和感『TAR/ター』

『TAR』を観てきた。もはや言わずと知れた、ケイト・ブランシェット主演の映画。なるべく事前情報を入れないようにしていた。研究者北村紗衣さんの「『フォックスキャッチャー』に似てます」というツイート、アナウンサー宇垣美里さんの「最後みんなびっくりすると思う」という言葉(ラジオ「アフター6ジャンクション」でのコメント)から期待と謎は高まるばかり。

 あらすじは、著名な指揮者リディア・ター(ケイト・ブランシェット)は、ジュリアードで講義を始めたり著書を出したりと大活躍中だが、教え子への態度やオーケストラでの独断ぶりなど、少しずつ綻びが見えてくる、というもの。

 (以下は「考察」でもないし、ただの感想と批評だ。私はこの作品をこう読んだというもの。あと結末にもふれています。)

学生との会話


 傍から見れば「完璧」な経歴のターの、全てをコントロールしたい、しなければならないという緊張感が続く。
 「綻び」はいくつかあるが、まずのちのち問題になるのは、ジュリアードの授業でのターと学生との会話だ。ターは、重要な音楽家を「女性差別的だから聞かない」という学生を注意する。これは自分の学生生活を振り返ると、文学でも似通ったところがあるなと思って興味深かった。いくつかの「文学史」的に重要な作品の差別的な面や作者の差別的な部分は気になっていた。特に最近は巨匠や文豪といわれる人が実はこうだった、というものが多くてびっくりする。今後もこういうやり取りはもっと増えるんだろうと思う。
 「完璧な人」なんていないし、人にそれを求めるのは違うとわかっているものの、じゃあ本や音楽や映画をどう評価すればいいのだろう、と思う。いい作品を作った人のまわりの人が被害を受けていいはずはないし。
 ターを見ていると、力をもったまま孤立していくのは恐ろしいと思う。劇中ではしつこいくらい「鏡」が出てくる。バスルーム、楽屋、車などなど。鏡越しに相手と会話しているようで、見ていなかったのかなと思った。

ラストの違和感


 結局、訴えられ評価も凋落し、さらには観客の前で団員を殴ったターはアジアへと飛ぶ。現実なのか非現実なのか曖昧としたコンサートで指揮をするターは「新しい世界」へと行ったのか、というところで映画は終わる。
 放り投げられたような気分だ。面白いとは思うけれど、「アジア」の描き方は気になった。未知で、混沌としていて「わからないもの」「エキゾチックなもの」として描かれているように思える。ラストの夢の中にいるようなコンサートシーンやエキゾチックな衣装の観客、ターがいくマッサージ屋でスタッフの女性たちが「水槽」の中に並べられているグロテスクな場面などだ。
 どうしてこうなる。去年の映画『ザ・メニュー』のアジア系のウェイターといい、アジア/アジア人(特に女性)にミステリアスさや、行き詰ったときに打開してくれる「新しさ」への期待(まさにターの置かれたような状況を変えてくれる存在)を背負わせすぎだと思う。
  もしかしたらこの点も批判的に描いたラストなのかもしれない、と思いもしたがどうなのだろう。また、ターが注目する若いチェリストのロシア人女性も「謎めいた存在」として描かれていたように思う。ロシアもそのように描写れがちかもしれない。

ただ、この「アジア人描写」は「日本」も他のアジアの国を描写するときにけっこうやっていると思う。

ケイト・ブランシェットの演技は言うまでもなく素晴らしかったけれど、そんなに好きな映画にはならなかった。

『TAR/ター』
監督:トッド・フィールド
2022年 アメリカ

 

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