闇の中の小さな光
最近、クリスチャンアーティストのMigiwaさんの曲を聴いていました。
「暗闇に光」という曲の一節で、このような歌詞があります。
約11年前に、神を信じてから、一時期この曲を何度もリピートして聴いていた時期があります。とても心が励まされたからです。
聖書には、このような言葉があります。
現在精神疾患を持つ私に、うつ的なものが始まったのは、おそらく高校生の頃でした。
両親は小学生の頃に離婚し、耳に障害のある母に、貧しい母子家庭で育てられました。割と荒んだ家庭で、2-3歳の頃、ショッピングモールでお菓子が欲しいと駄々をこねたら、イラついた母が、「じゃあ取りなさい!」と、万引きを促しました。驚きながらも商品をとり、食べました。子供ながらに、罪悪感の味がしました。他にも、同居していた祖母に「嘘をついて親戚からお金を借りてこい」と言われた嫌な思いでもあります。
「この家庭は何か間違ってる。うちの家族は人間として正しくない。」
そんな思いをいつも持っていました。
中学生のときに、姉が重い統合失調症になり、そのことをうまく受け入れられなかった私は、今までのことを含め、この家庭に生まれたことを憎んでいました。
家庭を憎みながら、人生に怒りを感じていた頃は、エミネムというHipHopアーティストの曲を聴くのが好きでした。怒りを表現している感じが心地よく、自分の部屋もない家では、音楽が私の居場所だったのです。
奨学金でなんとか高校に入学したものの、教科書を買う当日になって、購入現場で、母から「ごめん、教科書を買うお金がない」と言われました。普段から「私は働きたくないの」と言っていた母に、どうしようもない怒りが湧き、私は廊下で母を責めていました。それを見かねた学校事務の人が、「私が貸しますよ」と言って、教科書を買うお金を貸してくれました。でも、怒りの感情でいっぱいになっていた私は、上手にお礼が言えませんでした。
今思えば、私の心は怒りに支配され、感謝も憐れみも欠けた人間でした。
そのようにして授業が受けられるようになり、通っていたものの、ある時、やっぱり退学して働きに出た方がいいと思うようになりました。担任の先生はよく話を聞いてくれ、励ましてくれました。
その担任の先生がある時、私にこんな手紙をくれました。
「道は自分で切り開くもの」
その言葉は、その後の私の人生の、大きな支えとなりました。
私の人生の「光」の一つです。
しかし、その後も私は、人生や家庭への怒りに支配されたままでした。
地元の大学に進学したものの、とにかく実家が嫌で離れたくて、教育ローンを借り直して、東京の専門学校に行きました。母はいつも私に「公務員になれ」と言っていました。しかし、私にはそれは「お前が家族を養え」と言っているように受け取っていました。私はそれが受け入れられずに「なんで私の人生なのに」と思っていました。だから飛び出すことにしたのです。
しかし、そこで色々と道を踏み外し、鬱になってほとんど通学しませんでしたが、病院に通っても、薬を飲んでも、全然良くならない姉を見ていた私は、病院には行きませんでした。
その頃から、息を吐くように「死にたい」と思ってきました。
実家から逃げ出したのに、それでもいつかは私が家族を背負わねばならないとどこかで思っていたので、「そんな人生は重すぎる。いつか家族を殺して自分も死のう」と思っていました。
卒業後は、お金のために、職を転々としました。しかしうまく生きることができずに、お金ともうまく付き合えませんでした。借金をしたり、友人の家に居候してたこともありました。
そんな中で、中学のときの友人に誘われて、一時期教会に通っていたことを思い出し、ふと教会に行ってみようと思ったのです。
そこで牧師に今までの半生について話しました。
そして牧師はある聖書の言葉を教えながら、このように言いました。
「思い煩いは、ぜーんぶ神にお任せ。自分で背負わなくてもいいんだよ」
その言葉を聞いて、そうか、私が背負わなくていいんだと、とても安堵したのです。
そして、教会に通ううちに、聖書の神が、赦しの神であることを知りました。今までの、罪深い怒りに満ちた自分、家族を愛せなかった自分、間違った生き方をしてきてしまった自分を赦してもらえる。そう思って洗礼を受け、クリスチャンとなりました。
しかし、クリスチャンになったからといって、すぐにうまく生きられるわけではありませんでした。実は今もうまく生きられてなどいません。
今でも、苦しみや怒りにとらわれることがあります。
それでも少しずつ、神は私を変えていってくれました。
今、家族や育ちへの怒りはありません。
自分が母だったらどうだっただろう、母も母なりに大変だったのだろうと、相手の状況を想像することができるようになりました。
また、数年前に、私自身も姉と同じ統合失調症になりました。
最初は「なぜ」という思いや症状に苦しみましたが、今では、この病になったことに感謝しています。なぜなら、姉の苦しみを少しだけ理解できるようになったからです。
心を苦しめる病ではありますが、同時にその病を持って、昔の傷が癒やされたのです。
この病は、私を謙遜にさせ、弱きものに目を向けさせ、うまく生きられない人に目を向けさせます。
この病からの視点を持つことによって、私は以前よりもはるかに豊かな人間となりました。
ある一面においての憐れみや思いやりの心、ある人々に対しての想像力を身につけたからです。
クリスチャンの信仰生活にも、色々と波があります。
信じても、あらゆる苦しみがなくなるわけではありません。
しかし、神を信じた者にとって、過去の闇の中にあっても、現在の闇の中にあっても、決して消えない希望の光。どんなに弱り果てて光が小さくなっても、決して消えない希望の光。それが私の信じるイエスキリストなのです。
どんなに人生の苦難や、信仰の疑いの中で打ちひしがれても、決して離れることのできない不思議な力があります。それはきっと、以下の聖書の言葉のように、神が私を離さないからなのでしょう。
そんなことを思い出させてくれた一曲。
Migiwaさんの「暗闇に光」
ぜひ聞いてみてください。