インドネシアの物乞いの話
京都の三条大橋の横の路上で旅の資金を集めていた時の話。通りがかったおばちゃんに「旅のお金集めしてます」と言ったら1000円札を投げてくれた。京都に遊びに来たらしくて少し話して立ち去って行ったが、30分くらいしたらまた姿を現し話しかけられた。「ちょっと暇してるから話し相手になってくれない?お茶奢るわよ」と言われた。わたしもちょっとくらいならいいかなと思った。
「スタバでいい?」と聞かれて、とっさに「いや、スタバはいつでも行けるし、お茶するなら別のところがいいです」と正直に答えてしまった。カフェを見つけるため三条通りを歩いてると小川珈琲があり、「せっかく京都来たから小川珈琲どうですか?」とおばちゃんに提案した。「あなた、誘導がうまいわね」と言われた。小川珈琲に向かった。スタバはありきたりだ。小川珈琲は行ったことがなくて初めて行くことになった。少し高級感を味わいたかった。
コーヒーを飲みながら話していた。少し時間が経って17時くらいになった。「あなた食べたいものあったら好きなもの食べていいわよ」とおばちゃんに言われた。夕飯にとカレーライスを食べさせてもらった。量は少なめだが上品な味だ。うまいうまい。カレーを食べ終わると、「ケーキも食べない?」と言われロールケーキも食べることに。こちらも、ふわふわでおいしい。
なんでわたしをお茶に誘ったのかと聞いたら
、「訳ありそうな人ってほっとけないのよ」と。「訳ありの人が好きなんですか?」と聞くと、「そうね。だって、普通の人つまんないじゃん」と。
インドネシアに住んでいたこともあるそうだ。インドネシアで印象に残ったのは街にいた物乞いだったという。食堂や屋台で飯を食べていたら物乞いが横に来てお金をねだるという。少しお金を渡すと物乞いは去って行き、となりのテーブルの人にも話しかけていく。いろんな人に少しずつお金をもらいながら必要なお金を確保する。わたしを見てインドネシアで会った物乞いが重なったらしい。旅のお金を確保するという目標があり、路上に出て少しずつお金をもらってそれを達成している。一人にだけ助けてもらおうとしたら負担がかかる。いろんな人から負担にならない程度に少しずつお金をもらっていけばいいんだぞと。
この前、大阪の日本橋で起業家の兄ちゃんに肉丼を奢られた時も、自分の活動に必要なお金を調達してやっていくのが経営ですよと言われた。路上の物乞いもある意味経営主体と見ることもできるな。
見た感じ、身なりはよくスマートウォッチもつけていてお金には不自由してない感じだ。でも、刺激がほしいのだろうか、若い男の人に飯を奢って話し相手や遊び相手になってもらうこともあるという。不安障害など何かしら生きづらさをもつ若い男の人と関わることが多いという。話し相手を求めてたこともあるが、何かしら助けになりたかったという気持ちもあったという。
わたしなりにおばちゃんの言動を見て思うのは、明るいが落ち着きがなく話し相手を求めている感じだ。落ち着きがないため人間関係はつくりにくいのかもしれない。同じような生きづらさを抱えた人の世話役になりたいというメサイアコンプレックスもあるのだろうか。
元気な高齢者の話を聞いてて思うのは、高齢者が元気で若々しくいるためにはよく話したり、若い人と関わる必要がある。でも、高齢者が若い人と接する機会はもちにくい。楽しさやメリットがないと人は関わらないもので、若者は高齢者と積極的に関わろうとは中々思わないだろう。高齢者が若い人に関わってもらうには、お金を与えたり、飯を食わせたりする必要もある。お金は使い方次第では人間関係を成り立たせる潤滑油にもなる。熊本で会ったある元気な70代のおばちゃんは、やはり若い男性に飯を食わせて関係をもっていると話していた。
おばちゃんは双極性障害ももっているという。安定はない。そういう人は、つかの間の話し相手をえたり、火遊びをして適度に精神的なバランスをとる必要もあるのだろう。わたしもおばちゃんに飯を奢ってもらいながら、つかの間だがおばちゃんの精神バランスを支えたのかもしれないな。