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ネット空間の監獄化/そこからの離脱
TwitterをはじめSNSでは自由な表現ができる。ひどい言葉も流れる反面、愚痴や不満などのガス抜きや、体制批判も自由にできる。しかし、自由に発言できる生ぬるい空間に安住してしまうと、外に立ち向かうスタミナが徐々に奪われ、身内やネットの中に押し込められてしまう。ドゥルーズなんかも言ってたと思うけど、現代の巧妙な管理社会がもたらす罠ではないだろうか。ネット空間が「自由の監獄」になってしまう。自由な表現空間が人を不自由にしてしまう構造がある。
今回は、身動きがとれない人には耳の痛い話でもあるが、ネットの弊害についてそこそこ読み応えのある内容だと思うので有料記事にしておきます。わたしがネットから思い切って路上に出てきて人と関わっていった経験から感じたことも書いている。結論は、「一歩、外に踏み出してみる」なのかな。
1.SNSは現代のアヘンである
ネット空間は人に自由な言論活動を与えている替わりに、人の無力化にも一役買っている。
ネットでの発言はエスカレートしやすい。無名の人は普通のことや穏当なことを書いても注目されにくい。なので、強い言葉や煽り文句、極論で注目を得ようとしてしまう。いいね!やRTされると嬉しくなる。反応があるとドーパミンが出て快感があるだろう。自分が普段言えない強い言葉を発したり、言いたいことを言えたら快感になる。やってやった感である。誰かの問題発言を見ると、それを正そうと躍起になる。脊髄反射的に反応して何か言わないと気がすまなくなる。ネットでの問題発言さがしに没頭することになる。このように、依存症的な状態にも陥りやすい。
社会問題について関心をもったり発言するのは大切なことではあるが、半ば神経症的あるいは逃避的に社会問題にしがみついている人も結構多いように見える。社会問題について発言するのは立派なこと、高尚なこととみなされやすい。それだから、正当化しやすく自己肯定もしやすい。
いろいろ発言するにしても、自分の身の丈に合うレベルの話なのかを踏まえないと、空振り状態になって疲弊しやすい。エネルギーの配分の仕方やバランスの問題があると思う。自分が生きづらいのは、もちろん社会の問題ではあるが、まず身の回りを調整したり、自分の身の振り方など自分の手の及ぶ範囲のことに多くのエネルギーを使う方がいい方に転がる場合が多いと思う。特にリソースの乏しい人が、社会の構造的問題など大きなレベルのことばかり言っているのでは、空回りして中々状況は変化しにくい。エネルギーの使いどころやバランスをとれずにこじらせると、ひとつ覚えのように社会批判や他者非難でしか自己表現できなくなる。そうしてると、余計にチグハグになる。
自分の不全感を社会問題で埋めようとするとこじらせやすいのではないか。社会問題は、なかなか動かないからだ。だから、イライラして言葉も強くなりやすい。どんな理由があれ一般的感覚では、怒ってる人や言葉が荒い人、喧嘩腰の人に積極的に近づこうとする人はいないだろう。だから、イラついてる人は避けられ孤立しやすい。社会問題については凡人ではもはやコントロールできないことも多い(だからといって、何もしないという訳ではない)。だから、コントロールしやすく手ごたえが感じやすい、もっと身近なことを重視すべきだと思う。
ニーチェのいう「弱者」とは、宗教に救済を求めるだけで、自分でものを考えたり行動する主体性を奪われた人たちを指したのだと思う。すがるという意味では、社会批判や他者非難ばかりおこなう人も、それを呪文のように唱えることで救済を求めているように見える。マルクスは「宗教はアヘンである」と言ったが、人が宗教や教義にすがるあまり主体性を失い無力化するさまを表現したものだ。何かにすがったり、ただ教条的に言いがかりをつけるのは楽なのだ。正論はそれを言っておしまいのところがあり、自分が何もせずにいるために便利なものでもある。
自分の思い通りにならないとリアルに立ち向かうことをしなくなり、ネットの中で自分の言いたい事を言ったり鬱憤ばらしをして、やってやった感で酔うようになる。ネット空間がアヘン窟のようになってしまう。
2.ネットのノリに浸りすぎるとリアルに適応できなくなっていく
ここで生じるのは、リアルとのギャップである。ネットではバシバシ物申したり、言いたいことを言えるから爽快で刺激がある。しかし、ネットとは違いリアルは生ぬるい。社会問題についてバシバシ物申したり、自分の身の上話や深刻な話題をあれこれ言えてしまうネットのノリに慣れてしまうと、リアルの生ぬるさと噛み合わなくなってくる。
これは、昨今話題になっているカルトの問題に似ている。カルトのノリはカルト以外の人には疎んじられる。カルトの信者は孤立してしまい、カルトにしか居場所がなくなっていく。カルトをネットに置き換えると、似たような構図であることが分かると思う。
ネットを居場所にしすぎて、ネットのノリしかできないと、ますますリアルに適応できなくなっていく罠がある。
3.SNSがあさま山荘化している
SNSは相手のことが見えすぎてしまう。見えすぎてしまい、相手の気に入らないところや自分と合わない部分が目についてしまう。それで、同調圧力がかかりやすい。
「あいつ変なこと言ってたぞ」とか、誰それをいいねしてたとかフォローしてるとか、リプのやりとりをしてるとか、相互監視にエネルギーを使うようになる人たちもいる。SNSパノプティコンである。
みんな、ネットでトチらないようにビクビクして思うように振る舞えない。ネットが地獄の釜のふちとなる。自由な空間となるはずのネット空間も、縛り合いでビクビクしてしまい不自由な空間になってしまうようだ。
社会に影響を及ぼせないとなると、今度は叩きやすいスケープゴートをつくったり、身内に怒りをぶつけてしまいがちだ。働いている人が会社で物申せないからと、文句を言いやすい家族に当たるのはDVの問題である。これと同じような内弁慶問題がどこでも起こる。そして、その関係から離れられない、そこしか居場所がなくなると、苦しくてもやめられない共依存状態になってしまう。極端な例だと、連合赤軍は社会からも見放され行きどころを失って、最後は身内で総括を繰り返してつぶし合いをした。現代もネットを見ると、左派同士が細かな言葉つかいで揉めたりして消耗試合をしてないか。ネットが現代のあさま山荘になっているように見える。
社会問題だと言っていても、ネットの中で誰かの気に入らない言動に噛み付いてばかりだったり、すすんで身内でつぶしあいをしているのでは、権力は痛くもかゆくもない。ネットの中でどうぞやっといて下さいという感じなのだと思う。むしろ、そういう面倒くさい人を押し込む箱としてネットが機能しているようにも見える。面倒な人は、ネットの中で言いたいことを言えるが、その外には出れないようになっている。権力にとって害のないやり方で鬱憤ばらしをしてくれるので、うまく飼い慣らされているとも言える。こうやって、厄介者は世の中から見えないネット空間に追いやられ不可視化され無力化させられる。収容所である。
4.善き生をつかみ取る
ただ、ただ生きているだけなのか、喜びのある生き方をするのか。ギリシャ語で前者はゾーエー(zoe)、後者はビオス(bios)とされ、哲学の話でもよく取り上げられる。
ネットの中では自由に発言していても、外ではビクビクして、人とコミュニケーションができず自由に振る舞えないのでは、ネットが「自由の監獄」となっている状態だ。
世の中、完璧ではない。完璧にはまったく追いついてない。ずっとラディカルでいようとすると、摩擦が大きくなり疲弊ですり減っていく。場合に応じて、ラディカルと凡庸の使い分けが求められる。特に弱者というのは正論や立派なことを言うと疎んじられやすい。弱い立場の方が、そういう難しい立ち位置を強いられるのは残酷ではある。やりきれないというのもあるが、ならばいっそ頭のネジを外してデタラメになる時も必要だと思う。テキトーさやしなやかさでやり過ごそうとは、老子的な発想ではないかな。
社会システムがよくなればいいけども、そう急速によくなるものでもない。幸せやいい経験は社会や誰かが与えてくれるものでもない。善き生は自らの手で獲得していくものだという姿勢は大事なのだと思う。そういう獲得経験が自分らしさをつくるものでもある。
例えば、いい人に出会うのも、誰かを待っているよりも自分から話しかける方が上手くいきやすい。あなたと同じように、みんな他人に話しかけることに慣れていない。何者か分からない人とは接点をみつけられないから、どう関わっていいか分からない。自分から声をかけていかないと始まらないというのがある。
数人、いい人に囲まれたり、いい経験が続くと、心のこじれが緩和すると思う。人の配置や行動パターンのわずかな変化で、ええ感じになることもある。人の回復って案外単純なんじゃないかと思ったりする。
他人の言動がいちいち気になるのは、他者に依存的になっていることも大きいと思う。これは、自分と同じような言動を他者にも求め、そこから少しでも外れると気になって仕方なくなるコントロール欲求でもある。他人の言動に振り回されないためには、ある程度距離をおく。監視するように他者の言葉を追いかけない。また、他者依存的にならないためにも、自分が主体的に何かをなして価値をつくるのがいいと思う。そこで人とつながっていければいい。やはり、マイナスを軸にした繋がり方ではなく、プラスを軸にした繋がり方をしていくのがよいと思う。