【国家機密の鼻くそと私】
ベランダに蝉が止まっている。
マンションの前に止まる移動スーパーから大音量で流れる陽気なメロディーとのアンサンブルが私の生気をどんどん吸い取っていく。
これが、公園ではしゃぐ子供にベランダから怒鳴るおじいちゃんの気持ちなのか。今ならわかる。
静かに暮らしたいんじゃワシは。勘弁しとくれい。
大学一回目の夏がどうやら来たらしい。
3月に新しい自分に生まれ変わろうと開けたピアスも、刺す度に痛過ぎて早々に挫折し、ただの治りかけの傷と化し、初給料で初めて買った(竹下通りで)洋服も使わないまま夏となり、たんすでお眠りになっている。
数ヶ月の自宅警備中にある意味で悟りを開き、あらゆる装飾品を削ぎ落とした結果、今の私の制服は短いスカートでも大きなピアスでもなく、部屋着である高校のジャージだ。(多分一生モンだわ)
朝起きてから寝癖も直さず自室からも出ず、風呂に入る時はジャージからジャージへ着替える。
こんな生活は高校時代に思い描いていた大学生活とは真逆だけど、それが良いとか悪いとかそんなことには興味もなかった。
最近はあまりにも家から出ないので、もし人工衛星から私を追跡している組織がいたとしたら、姿を追跡出来ないどころか事件に巻き込まれたのではないかと不安になってくる頃だろう。
アメリカのある組織のモニタールーム。巨大ディスプレイに映るのは紛れもなくうちのマンションだ。
組織の調査は300日を超え、いよいよ佳境だ。
しかしここへ来て彼女の様子がおかしい。ここ何日も家から出てこないのだ。
彼女の家族は毎日朝早く家を出ていくが、日中にも特に怪しい人はおらず、たまに来るのは宅配便か、立方体の大きな黒いバッグを背負った筋肉質の男性だけだ。
不安の目を向ける調査員たち。
その時、玄関の扉が開いた。
彼らは一瞬安堵したが、出てきた彼女の姿を見て愕然とした。
何日も家から出ないせいで、肌は青白くなり、髪には芸術的な寝癖。
もともと2セットしかない高校のジャージは、洗いすぎて褪せに褪せているのがモニター越しでもわかった。
彼女はそんなことはよそに鼻くそをほじりながら郵便受けをチェックし、賃貸マンションのチラシ1枚を隣の部屋のポストに入れ、そそくさと帰っていった。
彼女の本性を目の当たりにし、戸惑いを隠せない調査員たち。
そんな中、調査員の中で最も若いジョンは、自分の胸に手を当てていた。
なぜか彼女の姿を見たときからたしかに鼓動が早くなっているのに気づいたからだ。
「…何故だ?」
その日から彼は何をするにも、遠い東の国の鼻くそ彼女のことを考えていた。
子供の頃から国家機密の組織に入ることを夢見て必死に勉強をしてきたジョンは、その夢以外のことを徹底的に排除したストイックな生活をしてきた。もちろん恋をしたこともなかった。
彼はモニタールームにある無数のディスプレイを管理することを業務としているが、その日から彼の目には、静止画にも見えるあのマンションだけしか目に映らなかった。
そんな様子を見かねた同僚は、ジョンに彼女のもとを尋ねることを勧めた。
最初は自分の恋心が理解できず、同僚からの助言にもピンと来ていなかったジョンだったが、毎日ディスプレイを眺めているうちに妙な気持ちになった。彼女に触れてみたい。一度でいいから。
彼は思い切った。会社を辞め、彼女を尋ねることにしたのだ。
追跡していることは彼女にはおろか、もちろん企業機密であるため、辞表を提出するときには上司に激しく止められたし、叱責も受けた。
でもそんなことは彼にとってはもうどうでも良いことだった。
数日後、彼は見慣れたマンションの前に立っていた。
手にはスーツケース1つと空港で買ったキティちゃんの東京ばな奈。
キティちゃんは、いつも彼女が着ていた100万回洗ってオレンジがベージュになったようなヨレヨレのTシャツに描かれていたキャラクターだ。
彼はオレンジ時代からずっと見ていたから、空港でキティちゃんやっと会えたという気持ちだった。
ジョンがマンションを眺めていると、ちょうど彼女が郵便受けをチェックしにくる時間だった。
郵便受けを閉めた彼女と目が合う。彼女は照れくさそうに笑った。
笑った顔も、鼻の穴に刺さったままの左手も、ジョンが長い間求めたものがそこにあった。
その瞬間、ジョンはどうしようもなく愛しくなって彼女を抱き寄せ左手にキスをした。
遥か遠くのモニタールームから歓声が聞こえたような気がした。
えいの・はる
大学1年生。空想が趣味。課題とバイトに追われる日々。最近占いで「OLだけは向いていない」と言われる。ブレイク時期未定。