おはようプラハ
ある朝、グレゴール・ザムザが不安な夢からふと覚めてみると、ベッドのなかで自分の姿が一匹の、とてつもなく大きな毒虫に変わってしまっているのに気がついた。
トムは昨日読みはじめた本を思い出した。それは、祖国であるチェコの代表的な作家、フランツカフカの変身の書き出しだった。
トムは夢をみないことが多かったが、その小説を読んでからは朝起きて自分の足が二本のままであることをまず確認することが習慣となっていた。
その朝は、珍しく夢を見た日だった。
トムは起きて顔を洗い、コーヒーメーカーをセットする。その間にその日に着る服を決め、予め出しておく。コーヒーができたら赤いマグカップに入れて一度すする。トースターのスイッチを入れて目玉焼きを作る。ここまでで15分。
トムの父親がいなくなってからもう5年ほど経つが、驚くほどに朝の手順は変わっていない。今朝は少し早めに起きることができたので、トムは父親の部屋をあけた。朝ごはんよりも変わらない仕事のやる気を出すためだった。
そのベッドの中にはアジア系の顔をした青年が眠っていた。
ドアを閉めると何事もなかったかのようにトーストの上に目玉焼きをのせ、口いっぱいに頬張った。変化という変化に弱いトムはそのまま家を出てしまった。チェコは時代の波に揉まれた国家の1つであったが、トム個人の性格に影響を及ぼすことはなかったらしい。
トムの家のドアには落書きがしてあった。意味の分からない文字が羅列してあり、はじめは消す努力もしたが効果はなかった。
家から歩いて20分のところにトムの職場は存在する。トムはプラハ市庁舎で働いており、日々世界遺産を中心とした観光地の整備に追われている。ある程度の成績で大学院を卒業したものの働き口はなかなか見つからず、専門の観光学とは当たらずとも遠からずのプラハ市役所の仕事にありついた。
ドアのないエレベーターの時代錯誤について辟易しながら三階に向かう。途中では観光客と思しきアジア人が動画を撮っているのが見える。普段であれば他人の職場を配信するなと注意するのだが、今朝ベッドにいたアジア人を思い出すのに精一杯だった。
市庁舎の三階では、プラハ城のセキュリティと観光客の安全確保が直近の課題に挙げられており、トムもその議論に加わっていた。
その日の午後は仕事でプラハ城まで赴き、見慣れた絶景を背に、歩いてゆく人々と施設について視察を行った。仕事を始めたばかりの頃は市役所の仕事についていくのに必死で、よく仕事中にプラハ城で財布をすられた。その出来事が職場内で話される度にトムは顔を赤くして弁明を行なった。
その夜は長かった。
トムは外で夕食を済ませて家に帰ると、シャワーを浴びた。次の日は休みだったため、片付けもそこそこに寝ることにした。トムは未だに父親の部屋のドアを開けられずにいる。
気づくと明るくなっていて、朝が来たことを悟った。部屋を出ると青年がコーヒーを淹れていた。
ある朝、僕が不安な夢からふと覚めてみると、ベッドのなかで自分の居場所が全くもって変わってしまっているのに気がついた。
仕方なくベッドから体を起こし部屋を出ると、見たことのあるキッチンだった。しかし、ここがどこかということをあまりよく思い出せない。誰の家にいても朝はコーヒーを飲むことは決めているので、コーヒーを淹れた。いい香りがして、白いマグカップに移す。
僕が出てきたのとは別の部屋のドアが開く音がした。僕は挨拶をした。
「おはよう」
「おはようございます」
「ここってどこなんですか?」
「私の家です。私はトムといいます。ここはプラハ、ええっと、チェコの首都にあたります。」
礼儀正しい彼は、自分の家で明らかに歳下の僕に向かって丁寧に話している。プラハであれば僕の家も遠くない。
「すみません、僕気づいたらここにいて。すぐ帰りますね。」
僕はお互いに抱えているであろう違和感が露呈される前に家を出てしまおうと思った。幸い荷物は持っていなかったので、コーヒーをごくりと飲み込んで階段を下りた。トムさんも気のない返事をして僕を見送ろうとしていた。
僕はドアを開け、駅がどちらかも分からないまま左に一歩踏み出した。振り返りドアを見ると、落書きが一面に書いてある。左に二歩目が踏み出されることはなかった。トムさんが閉めようとする扉を押し返した。
「今日あと3時間程、時間あります?落書き消しましょう」
「あ、ありますよ」
戸惑うトムさんを押し退けるようにして掃除用具を取り出し、掃除を始めた。それは、今までで一番大掛かりな掃除だった。僕はトムさんに指示を出し、トムさんはそれに従った。作業という意味では清掃活動のようだったが、どこか家族で大掃除しているような感覚があった。
トムさんのことはなにも知らなかったが、過去を清算しているようにもみえた。
作業は3時間を30分過ぎて、昼頃になっていた。ようやく片付けまで終わると、なかなかに立派なドアが現れた。
「本当にありがとうございました。とても、とても嬉しいです」
トムさんは礼儀正しくそう言った。
「いえ、勝手にすみません。ではこれで」
なんだか名残惜しい気もしたけれど、これ以上なにも言うこともやることもないように思えた。立ち去ろうとした時に、トムさんから声をかけられた。
「あの、名前を教えていただけますか?」
トムが少年から聞いた名前は父親のそれだった。トムは市役所の仕事をしながら、憧れていたホテル経営に向けた努力をしようと決意した。
思うままに生きるために、強烈な違和感をのみこんだ。