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すずちゃん ep.2
児童文学研究会に入ったのは、文芸サークルを探していて、そこが居心地よさそうだったからだ。では、普段どんな活動をしていたのかと明かすと、小説を書いていた。
サークルには五つのパートが存在していて、それぞれにまったく異なる活動を行っている。文芸創作、評論、詩作、絵、読み聞かせがそれだ。わたしは一応四年生の終わり頃までにすべてのパートに足を運んだ経験を持つけど、中でも文芸パートは参加頻度が圧倒的に高い。
一週間に一度、みなで決めたテーマに沿った短編を執筆し、共有サイトにアップして読んでもらい、合評する。毎週書かなければいけないわけじゃなくて、書けたときに出せばいい。アルバイトや大学の課題の都合もあるだろう。ほとんど毎回のように出す人もいれば、たまに渾身の作品を持ってくる人もいた。「読み専」と呼ばれる、作品を出さない人もいたけれど、それは稀だ。わたしは再三繰り返すように、のんびりした娘であったが、こと、執筆になると話が違った。
「よく、毎週のように書いてこられるよな」
同じく、文芸パートに最も顔を出していた絵羽くんは、あるとき、わたしに対してぽつりと漏らした。絵羽くんはいつでもふとした瞬間に、ほんとうにぽつり、という感じで感想を述べる。そんなときの生真面目な面差しが、わたしはよく、自宅で執筆している際などに思い浮かんだ。思い浮かぶと、筆はまたよく進んだ。その面差しに突き動かされてきたのだ、ずっと。
「その分、クオリティには差があるけどね」
謙遜じゃなく、重々自分でも感じていることだった。でもテーマを聞くと毎度描いてみたいものがふわりと脳裏に過ぎって、それをいい感じに仕上げられるかどうかは、実際に書いてみないと分からない。あるいは誰かの意見を聞かないと、いい部分も悪い部分もはっきり見えてこない。そういう点では、児童文学研究会の活動が毎週あるのはありがたかったと言える。
絵羽くんはわたしと異なり、ふとした瞬間に切れ味鋭いものを持ち込んでくる。長考の末に誰もが度肝を抜かれる一手を導き出す棋士みたいだと、わたしはいつの日だったか思った。彼の話し方と一緒で、ぽつりと、普段露わにならない感情が、落とされる。
「三枝さんって、いつから書いてる?」
絵羽くんは最初の頃から現在に至るまで、ずっと「三枝さん」で通している。呼ばれ方なんてどちらでもいいと言えばいいけど、絵羽くんにそう呼んでもらえると、なんだか、わたしの苗字も悪くないな、という気持ちになる。ちなむと、おすずのことも「夏川さん」で通している。
「ちゃんと書くようになったのは、中学生からかな」
「ちゃんと、と言うのは」
「最初は好きな作品の続編を、自分で勝手に書いてたから」
小学校六年生のとき、好きだった椋鳩十の「片耳の大シカ」の続きを原稿用紙に綴っていた。ただ、自発的にそうしようと思って始めたのではなく、学校の課題で出されたのだった。なんでもいいから、好きな作品の続きを。たぶん、原稿用紙二、三枚でよかったところを、わたしはその作業に興が乗ってしまって、十数枚と書き続けた。そんなことをしたのは学年の中でもわたし一人で、先生は褒めてくれたし、周りのみんなも「すごい」と素直に驚いていた。
いずれ書き始めていただろうとは考えられるのだが、振り返れば、あの課題が自分で創作をする、という出発点になった。
「それなら、ぼくも経験があるよ。歴史小説の続編とか、書いてみたくなって」
絵羽くんは今ではいろんなジャンルのものを読むのだけど、小学生から中学生くらいの頃は、歴史小説ばかりに没頭していたそうだ。吉川英治、司馬遼太郎、北方謙三――などなど。わたしも彼の影響あってか、永井路子、朝井まかて、高田郁などは手を出してみた。
「やっぱり、そうだよね。それ以降も、影響を受けたものの真似事という感じで――今になって、やっと自分の言葉で書いてみようとしてる段階かも」
わたしが言ったのに、ちゃんと書く、とはいったいなんだろうと不思議になる。なんらかの咀嚼がなければ吐き出せない。その形にいかにオリジナリティを追求できるかが、つまり、ちゃんと書くということなのかしらん。分からない。
中学二年生くらいだったか、それ以外にもそういう機会があっただろうけど、将来の夢について文章を書いて、一冊の冊子にするみたいなことがあった。わたしは当時吹奏楽部に所属していて、やがて高校へ進んでからもまた吹奏楽部に入部するのだが、音楽関係の道へ行きたいとは一度も考えなかった。どちらもレベルの高い学校ではなく、部員のほとんどが女子で、やはり居心地がよかったのだと思う。わたしは居心地のよさで居場所を選ぶ。そう書けば普通のこととも取れるのだけれど、もっと言えば挑戦してこなかったのだ。自分の手の届く範囲で満足する心。
時代が進んだり戻ったりするけど、小学校の高学年になると、わたしの通っていた小学校ではみなマーチングバンドをやることになっていた。全員参加の強制である。上手いも下手も関係なく。当時、そういうものだと受け入れて、なにも考えずにやっていたけれど、大きくなってからビデオで見返して、あまりの悲惨な具合に目を覆いたくなった。披露する機会もそう多くなく、その直前しか練習しなかったから、当然の結果だ。子どもたちがそれぞれの楽器を抱えててくてく歩いている姿が、かわいらしい、というだけなのだろう。それと、楽器に触れてみる、みんなと協力して一つの曲を演奏する、そういうきっかけを与える名目もおそらくあったはずだ。そして現に、そのとき強い希望もなく吹いていたホルンを、わたしは中学以降も吹き続けたのだから、目論見はあながち無駄ではなかった。
とはいえ、前述のとおり、吹奏楽に関わり続けたのは惰性、とまでは言わないまでも、命を懸けてまで取り組んでいた青春じゃなかった。文芸部があれば絶対に入ったのに、そんなものはなかった。サークルの人に訊いてみても、今どき文芸部のある学校なんて稀で、入っていたという人もなかったから自分たちで作った、と目を見張るようなことを答えていた。その手があったか、と思った傍から、でも自らの消極的な性分を顧みて、そもそも後悔にならなかった。
そんなわたしが文集に綴った将来の夢は、「作家」だった。憧れでも真面目に将来を見据えたのでもなく、純粋にパッと浮かんのだがそれで、それ以外なにも思いつかなかった。だから、作家になりたいという夢を持つことがどういう意味を持つか分かっていない。当然、文集だからみなの手元に届き、すべての将来の夢は等しく余人の目に晒されることとなる。
大人しいわたしであるからして、誰それの夢がああでもないこうでもないと騒いでいるクラスメイト達を横目に、友達の将来の夢について読み耽っていた。すると、うるさかった男子たちの矛先がなぜか私の方へ向いたのだ。
「三枝、作家になりたいのかよ」
そう口にして、ひとしきり笑っている。一人の笑いは伝播するように、近くの数人の笑いを誘発する。笑われているのはわたしだと分かっていながら、どこに笑われる要素があるのか皆目見当がつかず、しかもどうして面白いのか彼らは言ってくれないのだ。作家になりたい、という夢は、どういう種類の夢なのか。
「すずちゃん、作家になりたいの。素敵ね」
その騒ぎを聞きつけた女子たちが、今度はそんなことを言って目を輝かすのだから、わたしはますます混乱した。彼女たちの表情には揶揄している気配は微塵も窺えず、偽りのない本心のように思える。だけど、だとしたらなおさら分からなさは極まる。笑われたり、素敵だと目を輝かされたりする夢なのか。なんだろう、それは。
そういう経緯があってから、ほかの人の目につくところでは「作家」と将来の夢を綴らなくした。代わりに掲げたのは「編集者」であったり、あるいは「図書館司書」であったりした。どちらも漠然としたイメージしか湧いていなかったけれど、では、果たして作家になったらどういう毎日を送ることになるのか、これまたイメージできていなかった。
高校を卒業するとき、大人になった自分へ向けて短い動画メッセージを送る、というものがあった。誰もいない教室で一人残され、大人になった自分に向かってなんらかの言葉を伝える。ほんとうにたった一人で撮影は行われたから、わたしはここでなら大丈夫だろうと、将来の夢について話した。
「じゃあ、おれが教室から出たらスタートな」
担任の男の先生がセットしたビデオカメラの再生ボタンを押し、早足で教室を後にする。順番が来るまで課題プリントをやらされていたため、名前を呼ばれてから俄かに焦り出した。なにを伝えたらいいのか分からない。考える時間はたくさんあったのに。こちらを凝視してくるようなカメラのレンズを見つめ返しながら、そうだ、将来の夢について話そう、と閃いた。
卒業間近で、進学する大学も決まっていた。大学とはどんな場所なのか、オープンキャンパスや受験などで足を運んだだけでは知れない。そこに行ったらわたしは何者かになれるのか、水先案内人のいないまま舟を漕ぎだす心地だった。大人になるのだとぼんやり感じる。あくまで、ぼんやりと。
「高校三年生、もうすぐ卒業を控えてる『わたし』です。十年後はどうなってますか。夢は、叶ってますか」
十年後、つまり二十八歳の自分に向けてのメッセージだった。どうしても、改まった口調になってしまう。
「わたしには今、夢があります。周りの人にも言えないけど、強く憧れているんです」
物語を紡ぐ人になることを。だけど、先生が編集チェックのために目を通すかもしれないから、具体的な職業名を口にするのはためらわれた。それに、これだけで十年後の「わたし」は絶対に分かる。
「十年後、また再会できるときを楽しみにしてます。――それじゃ」
手を振ることもお辞儀をすることもないまま、ふらりとカメラの前から離れた。廊下の隅で待機している先生を呼んで、終わったことを告げた。先生は次の人を呼びに行く。
再会するとき、それは「わたし」の年齢がカメラの向こうの「わたし」に追いついたとき。学校でも初めての試みだから、ちゃんと予定通り送られてくるのか分からないけれど――その通過点にいる今のわたしは、再会のときが迫っているのが少し怖い。だって、胸を張って向き合える自信がないから。
大学のサークルには部室というものがある。キャンパスの一角に学生会館という名の建物が存在し、その中にいくつもあるサークルそれぞれのための部屋が用意されている。「部」ではなくてサークルが利用しているのだから、厳密には「部室」じゃないのかもしれないが、そちらの方が通りもよくて、定着している。
それほど大層な部屋ではなく、十五人くらい入ったらもういっぱいになってしまう。だから、時間の空いた人が入れ代わり立ち代わり部屋の扉をノックし、各人の流れで利用している。室内の作りつけの棚には過去に製作した冊子や、児童向けの図書、イベントなどで使う備品がみっちり並んでいる。すごく快適と言えるわけじゃないけれど、たくさんの人で溢れかえるキャンパスの中で居場所が存在することは、けっこう大きい。
二限が終わり、お昼を食べに部室を訪れ、居合わせた十人ほどで肩を寄せ合ってテーブルを囲んだ。先輩、後輩入り混じっていて、それでも気兼ねしなくてもいいのがこのサークルのいいところだと思う。
三限の時間が迫り、みな慌ただしく部室を後にする。わたしは三限がなかったけど図書館にでも行こうかなと考えていたら、遠い席に座っていた絵羽くんもどうやら三限がなさそうだったから、ちゃっかりそのまま居残ることに決めた。
やがて、上手いこと二人きりになる。上手くいき過ぎてかえって動揺する。わたしは授業で扱っている本を取り出して、なんとなく読む構えだけ見せた。絵羽くんはお弁当を片づけもしないまま、窓の外をぼんやり眺めていた。その端正な横顔を、ちらちらと窺う。横顔の向こうに紅葉した木々の葉が映る。もうすっかり秋だ。夏休みはあっという間に終わり、また大学に通う日々が始まっている。文化祭に向けての冊子作りも佳境を越え、あとは最終段階に入っている。
どうしてこんなに絵羽くんが気になるのか分からない。どうして絵羽くんを前にすると、こんなにも緊張してしまうのか。
「急に静かになっちゃったね」
絵羽くんは窓に向かったまま、柔らかい口調でそう言う。――その瞬間、わたしは顔が熱くなる思いをした。窓にはうっすらと室内の様子が映っている。わたしが絵羽くんの方をずっと見ていたことが、向こうにも分かっていたのだ。
「そうだね。絵羽くん、三限ないの」
分かり切ったことを訊いてしまう。
「うん。今日は残り、四限と五限に出て終わり」
くるりと、彼はこちらに顔を向ける。いつまでも見つめていたいのに、顔を伏せないと耐えられないのはなぜだろう。わたしの胸の内のすべてを見透かされそうだ。
「そうなんだ。じゃあ、わたしと一緒だ」
二人きりになると分かっていたら、こんなぼやけた色のカーディガンなんて着てこなかった。二人きりになると分かっていたら、無造作に下ろさないで編み込んでみたのに。前髪の揃い具合も気にかかる。唇の渇きとか、果ては匂いまで――切りがない問答、不安材料。おすずみたいに、いつでも綺麗な女であれたら。
ねえ、とわたしは口走っている。その、と続けている。熱に浮かされたように、自分でも思いかけない言葉を投げかけた。
「もしよかったら、今度、映画観に行きませんか」
語尾が震えた。絶対、自然じゃない。こんなタイミングで、なんの脈絡もなく映画に誘ううだなんて。後悔が即座に襲ってきた。言葉は一度放ってしまったら決して取り消せないから厄介だ。
「もしかして、それ?」
どんな返答をされるかと怯えていると、絵羽くんはわたしの手元を指差す。当惑しながらその本を確かめると、帯に「今秋、映画化」と大きく出ていた。――藁にも縋る心地。これなら、自然な運びに持ってゆけるかもしれない。
「そう、これ。どうかな?」
「ぼくも少し気になってたんだよね……二人で?」
「ほかに、誰か誘いたい人がいれば、ぜんぜん」
ほんとうは願っている、誰も誘わないでほしいと。二人で行かなければ意味がない。
「じゃあ、せっかくだから二人で行こうか。いつにする?」
普段気にもかけない神様に、唐突に感謝したくなる。その後、二人で約束の日を決め、わたしのスケジュール帳でその予定はきらりと光を放っているかのよう。早くも当日が待ち遠しくなった。
手にしていた本はフランスの作家・フローベールの『ボヴァリー夫人』。わたしの中で、これから特別な作品として位置づけられるかもしれない。不倫の話だけれど。