わたしたちの恋と革命 ep.10
見渡す限り人、人、人。人の波にさらわれてしまいそうになる。だが、その波に上手く乗ると、だんだんと行くべき方へ足が向いて行った。入場口にたどり着き、手荷物検査や本人確認を済ませた後、いよいよ球場の中へ。
普段、野球の試合が行われているグラウンドにずらりと椅子が並べられ、それらはいくつかのブロックに分かれている。外野席にもたくさんの人がいて、それぞれの視線はまだ誰も立っていないステージに注がれていた。開演時間を迎えたら、あそこにアイドルの子たちが姿を見せる。
詩はチケットで指定された席を確かめた。アリーナ席、つまりグラウンド内だった。より近い位置からステージを見ることができる。
「つくづく、運がよかったね」
茉白の言葉に、
「熱烈なファンを差し置いて、少し気が咎めるかもだけど」
詩は苦笑いで答えた。
「これだけの人たちを前にパフォーマンスを披露する心境って、どんななんだろう」
文学少女の芽衣は、感情移入を試みているらしい。想像しようにも、住んでいる世界が違い過ぎて上手くいかない。
時間とともに周囲の席もあっという間に埋まっていった。やがて、絶えず流れていた音楽が途切れると、場内が一斉に暗くなり、観衆からの歓声が上がった次の瞬間に、ステージがライトで照らされた。
この先、何度かこのシーンを思い返すかもしれない。ライトの下に入れ代わり立ち代わり現れる少女たちが、ひらひらのスカートを揺らしながら、客席に向けて手を振りながら、笑顔を浮かべながら、全身で「アイドル」を体現していた。そこから、メンバーの一人の掛け声を皮切りに、賑やかな音楽が耳を打ち、ポップな曲が始まった。一人ひとりのパーソナリティは分からないが、前奏、Aメロ、Bメロ、サビと移っていく度に、立ち位置が入れ替わっていくことや、左右対称の振り付けが美しく見えた。
目まぐるしく曲が披露されていき、たまに聴いたことのあるものもあったけれど、ただただ、興奮の渦の最中で圧倒されてばかりだった。
(あれ、あの子……)
詩は控えめそうなお下げ髪のメンバーを見つけ、それが芽衣の姿と重なった。
(明るく、活発なメンバーがほとんどの中で、ああいう子はかえって目立つんじゃないかな。……芽衣がアイドルだったら、きっと人気が出ただろうな)
また、前列と後列が入れ替わったところで、ひときわ背の高いボーイッシュなメンバーに目が留まった。宝塚のスターを思わせるような堂々とした振る舞いは、自分自身がどういう風に見られるかをよく理解している。同性なのに、かっこいい、と繰り返し感じた。
(王道アイドルソングのときには後ろに控えているけど、クールな楽曲のときには最前列ど真ん中を張ることもある。きっと茉白がアイドルだったら、あんな感じだったはず)
詩は少しずつ芽生えた胸中の気付きを言葉にしていった。
(特別な人たちを見に来るつもりだった。若いうちに「アイドル」という特殊な環境へ身を投じる人たちがどんなだかを確かめに来たつもりだった。だけど、特別じゃない、と言い切れる。あそこに立っているのはわたしたちとそう変わらない、等身大の少女だ)
だからこそ、身近な存在を重ねられる。
(どうやったら、その人の魅力を最大限に生かせるか……そういう世界なのかもしれない)
スポットライトは太陽みたいに、数多のペンライトは星々みたいに、歌い踊る彼女らを輝かせていた。
観客の退場はブロックごとに段階的に行われるため、終演後、詩たちはしばらく待たされた。
「すごかったね」
ぽつりと詩が漏らす。
「うん、すごかった」
同じ文句を繰り返す二人だが、その言葉に込めた思いはそれぞれ微妙に違った。
「どう感じた? 詩は」
今日のライブの様々な場面が頭を過ぎる。「面白かった。あの世界のこと、もっと知りたいって思った」
「革命だね。追いかけたくなった?」
「そうだなー、ほかのグループのことも少し覗いてみたいけど、ファンになることはなさそう。それに、しょっちゅうライブ会場に足を運ぶのは疲れちゃうかな」
芽衣はどうだった、と水を向けると、「かわいい子たちばっかりで、きらきらしてた。歌も聴いてると、意外と意味のある歌詞だし。……だけど、天地が引っくり返っても、わたしにアイドル衣装は無理だな」
えー、似合うと思うよ。というか、芽衣に似てる子いなかった? そんな子、絶対にいなかったよ、ねえ茉白ちゃん。うーん、どうだったかな、詩に似てる人なら見憶えがある。え、冗談でしょ。
そんなことを話しているうちに、ようやく退場の順番が巡ってきた。客席は半分以上が既に空席になっていた。
出口に向かってゆっくり歩きながら、無人のステージに視線を送る。がらんとした舞台、あそこで歌い踊る少女たちを観に来ることがまたいつかあるだろうか。また、いつか。詩の呟きが聞こえたらしく、そうだね、と振り向かずに芽衣が応える。なにが、と先頭でこちらを振り返りそうになる茉白の背中を、芽衣が「いいから進んで」と押した。
三人の胸になにかしらを宿し、その日は暮れた。
白紙のままの進路希望調査のプリントが机の中に仕舞われていることを意識しながら、ぼんやりと窓外を眺めた。夏の空とも、秋の空とも言える、中途半端な白と青。
(進路希望って、なにを書いたらいいのかぜんぜん分からない)
とはいえ、自分自身と向き合うきっかけにはなる、と詩は感じている。
二年生の一学期が終わり、高校生活も大体半分ほど。ゴールが見えてくる頃だから、次のスタート地点を探さなければならない。大学か専門学校か短大か、進学するとしたらどこを選択するのか、それとも就職か。
(わたしのやりたいことってなんだろう)
プリントの提出日は今日まで。提出してから部活へ向かおうと考えていた詩だが、あまりに書くことが出てこなさ過ぎて、茉白と芽衣に相談を持ちかけることに決めた。席を立って教室を出る。
教室を出たところで、さくらに出くわした。
「あ、菊池さん。進路希望調査書、提出まだですよね」
まさに懸案事項を持ち出されて、詩は泣きつきたくなる。
「すみません、少し迷っていて……今日中に必ず提出します」
「珍しいわね、菊池さんが提出物ギリギリになるなんて」
正解が分かるかどうかはともかく、なにを書けばいいか明確なものなら、期限に間に合うよう手をつけられる。今はこれまでと種類の異なる壁が聳えていた。
「先生は、いつ教師になろうと思ったんですか?」
吹き抜けの階下を見下ろしながら、詩とさくらは立ち話を続けた。
「就職活動中かな。最初から絶対に教師になるって決めてたわけじゃない」
「そうなんですか?」
さくらの目に、当時を懐かしむ色が浮かんだ。
「念のためと思って教職課程は取っておいたんだけど、周りに合わせて就職活動もしてみて。だけど、明確にこれがやりたい、って見えてなかったからやっぱり上手くいかなくて――それなら教師になりたいって急に思えたの」
さくらはそこで方向転換し、結果的に高校教師にたどり着くことができた。
「運がよかったのよ」
教師、か。詩は胸中で呟いてみる。学校で教える自信は少しもない。そんな自分をイメージできない。
「やりたいことがまだ分からないなら、とりあえず、なんとなく惹かれる方へ飛び込んでみたらいいんじゃない? そうしたら、見えていなかったものが見えてくるかも」
部室へ向かう途中、廊下の奥から歩を進めてくる二人連れの影を捉えた。一目で誰と誰の組み合わせか分かったが、距離が縮まってきて認識に誤りはなかったと確かめられる。こんにちは、と口に出しながら軽く頭を下げると、すれ違いざまに二人の「こんにちは」がハモって返ってきた。
生徒会長の萩原葵と、副会長の吉岡美月。
下半分だけ縁のある眼鏡は、いつだって真面目な葵の個性を表していて、美月の豊満なバストは彼女の慈愛の深さを象徴しているようだ。
詩は一度振り返って、遠くなっていく二人の背中を見つめた。もうすぐ開催される文化祭を最後に、三年生の彼女らは生徒会から離れる。受験シーズン本番に突入するから、学校に姿を見せる頻度も低くなるのかもしれない。今の詩と違って、彼女らは将来進みたい道を見出せているだろうから、進路希望の紙に書くことで悩むことなんてきっとないだろう。
(二人ともしっかりしてるから、去年の今頃にはとっくに決めていたか)
やがて見慣れた小教室へ到着した。「コンコン」と口に出しながらノックをして、室内へ身を滑らせる。なにか話していたらしい茉白と芽衣の視線が、同時に詩の方へ注がれた。
「遅かったね」
詩は空いている席に鞄を置いて、鞄の中から進路希望調査書を引っ張り出した。
「わたし、決めた」
心の内で決めたことも、実際に言葉にしてみることでより実感が伴う。
「やりたいことがまだ分からないから、なんとなく惹かれる方へ飛び込んでみる」
完全に、さくらの受け売りだった。だが、今の詩にはなによりもしっくりくる道筋だ。
(やりたいことはまだ見つからない。それなら、より可能性が広がる道を選んで、いつかちゃんと見つけてみたい)
茉白が頷く。
「それは革命だね」
芽衣も頷いた。
「わたしもそんな感じ」
自分の好きなものくらい分かっているけれど、それだけで将来は描けない。
窓の外に目を転じる。夏の空とも秋の空とも言える中途半端な空は、少女たちの筆で自由に彩られる瞬間を待っているかのようだ。