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高校留学@アメリカArkansas州の体験談


はじめに

この記事は、私が2007年に当時高校2年生(16)で初めて交換留学に行った経験談です。可愛い子に旅させようと聞いたことがありますが、自分が親になった今、可愛いわが子を一人で留学に行かせることは、親にとって相当な試練だったと思います(笑)ましてや銃社会や麻薬社会のアメリカ。親は心配していたと思います。改めて、留学に送り出してくれた両親や家族に感謝しています。ありがとう!!

行きのフライトでの出会い

16歳で初めての飛行機に1人で乗る経験。留学先のArkansas州Mena市に到着するためには、ダラス・フォートワース国際空港(DFW)で乗り換えが必須でした。英語は好きでしたが、まだ会話できるレベルではない私は、乗り換えがあるフライトにドキドキハラハラ。空港内のアナウンスが聞き取れなかったらどうしよう。。

機内に入ると、隣の席に大学生のベトナム人のお兄さんが、妹とそのお友達を連れて座っていました。つたない英語で、初めての留学に行くことを伝えると、彼もアメリカの大学に通う留学生で、妹たちもアメリカの大学に通うためベトナムに迎えに行った帰りとの事。

ダラス空港まで12時間フライトでしたが、彼らのおかげで1人じゃないと感じて過ごすことができ、現地の大学生活など、(あまりよく聞き取れませんでしたが)親切に話をしてくれました。

そして、彼らは全く別の乗り換えだったにも関わらず、私の重たいスーツケースを一緒にカートに乗せて、乗り換えゲートのある棟まで送ってくれました。今思えば、この出会いがなかったら、私は空港内で迷子になっていたと思うと、本当に感謝でいっぱいです。

乗り換えGATEに着くと、アナウンスで遅れているとのこと。よく聞き取れませんでしたが、掲示板をみて何とか理解しました。GATEの変更もあり、少し迷いそうになりました。到着予定が1時間遅れることになり、ホストマザーが空港に迎えに来てくれることになっていたのに、連絡手段がなく困っていると、地上スタッフのお姉さんが気を効かせて、代わりに電話してあげるから、ホストマザーの連絡先を教えてと、代わりに電話をしてくれました。

行きのフライトでの出会いが、現地まで安全にたどり着けた理由です。本当にありがとう!

憧れの黄色いスクールバス

TV等で現地の学生がスクールバスに乗るのは見たことがあったけど、まさか自分が乗ることになるとは。毎朝、家の窓から外を眺めて、スクールバスのエンジン音(ブオンブオンって山の中だからか?響くんです)が聞こえてくると、走って乗り込む。もし気が付かずに乗り遅れたらどうしよう、、と心配していました。というのも、ホストマザーと私の2人暮らしで、ホストマザーは朝5時頃に出勤してしまうため、家の戸締りはすべて私の役目。バスに乗れないと送ってくれる人が居ない。。という状況でした。(今思えば、近くに親戚や私と同世代の孫たちが住んでいたので、誰かしら助けてくれたと思いますww)

バスに乗り込むと、見慣れた顔の生徒たちが乗っていて、いつも私の通学路は校長先生がバスのドライバーだったので、どこか安心感があった。現地の道はガタガタで、日本のような滑らかな舗装がされていない道も多く、運転が荒いのも相まってバスの乗り心地はジェットコースターだった。
学校までの道中は友達と何気ない会話をしたり、ドイツからの留学生とよくお互いの言語について、『これはドイツ語/日本語でなんて言うの?』と会話をしていたのが懐かしい。どこに行っても日本アニメの人気ぶりに驚くけど、アニメオタクの友達からは、このアニメ知ってる?と様々な質問をされたけど、アニメに疎い私は、まったく話について行けず、、、トホホでした。

現地の授業で驚いたこと

現地の公立に入学した私がまず驚いたことは、小学校から高校まで、1つの校舎で完結していること。日本では、小学校、中学校、高校と、それぞれ別のところに通ってきたので、え、ここで高校まで卒業できるんだ~と同時に、希望すれば、学年を越えて授業を選べる(飛び級などもある)ため、高校生の私が受ける授業に、中学生も参加していたり、大人の生徒が通っていたりと、年齢は全く関係ないんだと思った。

そして、日本では、一方的に先生が話すことを聞いて、黒板に書いた文字をひたすらノートに写す、教科書に指定された場所にマーカーを引くなど、受け身の授業だったのが、現地の高校では、とにかく生徒が発言する機会が多く主体的。

歴史の授業では戦争について日本人としての意見を求められたけど、歴史が苦手かつ英語もまだ上手く話せない、自分の意見もない私は、何も答えられずに苦笑いするしかなく、恥ずかしかった。。他の国からの留学生(中国、ブラジル、ドイツ)は、少なくとも自分の意見を英語でいう事はできていたので、意見がない私は穴に隠れたかった。

PCの授業では(2007年当時)中高生向けに、Photoshopやillustratorの操作をする授業があり、当時の私は何をやらされているのかさっぱり分からなかったけど、今思えば高校で画像編集を学ぶって、めちゃくちゃ実践的だし進んでいるなと思う。

その他にも、家庭科の授業では、妊婦がどれだけの重さを身体に感じているか男性が体験する授業や、赤ちゃんのロボットを数日間、朝から晩までお世話をする授業(泣くたびに抱っこ?おむつ?ミルク?どっち??)など、本当に様々な視点で授業が実践的だなと感じていた。

食事情

給食があったので、給食を食べることにしたのだが、日々のメニューには最初は違和感しかなかった。大きなピザ2枚だけ。豆を煮たものにパンだけ。デザートには甘いこってりチョコケーキなど、日本の給食を知っている私には、え?これだけ?これ食べてたら確実に太るわ。。。と感じていた。

友人の中には、学校の給食が合わず、自分で生のミニ人参やバナナ、ナッツなど持参している子もいたが、私からすると、え?これだけ??といつも食に対する価値観には驚いていた。

ホストマザーも、ほとんど料理はせず、夕飯はケンタッキーやマクドナルド、系列のバーガー屋さんなど、ほとんどテイクアウト。家で食べるときも、冷たいパンにチーズとハムを挟んで、マヨネーズつけて、盛り合わせに大量のポテチwww 食後には、バケツの大きさのアイスクリームを冷凍庫から出してきて、アイスにミルクを投入して、オリジナルシェイクを飲み干す。こんな食生活も、最初は驚いていましたが、人って環境に馴染む生き物なんですね。私もいつの間にか、これが普通になっていました(笑)

終わりに

私の16歳のはじめての冒険から、いつのまにかもう17年も経っていた。。時が過ぎるのは早い。いつのまにか、妻になり母になった。

高校留学から戻ってきてすぐは、行かなきゃよかった。。と上記の楽しい思い出とは反して、16歳の私のとって、初めての留学生活は試練も多かったのだと思う。

学校で唯一の日本人で差別的な視線や言葉を浴びたり、思うように英語が話せず、日本のようには友達ができなかったこと、ホストマザーの娘さんが4人目が生まれるタイミングだったこともあり、親切心からベビーシッターを引き受けてしまったりなど、自分の親や家族のようには我がままが言えずに、無理をしていた部分もあった。お風呂はなく、シャワーの時間や使う頻度に制限があったり、こればかりは、滞在するホストファミリーによると思うけど、その家庭のルールなどが厳しいと大変だと思う。(ホストファミリーもボランティアではなく、一応お金をもらっているので、こちらの自己主張も必要だったと振り返って思う)

帰国してから、日本の常識が受け入れられずに、逆カルチャーショックになり、日本の友達とも距離を置くこともあった。留学で10kg以上増量してきたので、高校の制服もパツパツで、周りからも太ったね~と指摘されることも、とても違和感だった。(アメリカでは、人の体型は見た目について指摘することはタブーとされているので、その人の個性をより重要視しているように感じた。)

全く英語が話せない状況から、現地の生活に飛び込んだ経験は、大人になった今、クスっと笑ってしまうほど良い思い出だし、この経験があったから、その後の私が居ると思うと、本当に良い経験だった。何よりも、ホストファミリーや友達、先生など、留学に行ったからこそ出会えた人たち。
改めて出会いは最高だな~♡


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