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『ウンコの教室』


この記事の最後に、「でも、仕事や遊びや日常生活を難なく行うのに必要なのは身体を強くすることだけではないはず。三食しっかり食べて、1日の終わりにお風呂に浸かって、ぐっすりと眠る。最後はやっぱりその繰り返しではないかなぁ、とも思います。」と書きました。

が、もう一つ大事なことがありました。そう、「排泄」、「出すこと」です。

少し前に、湯澤規子著『ウンコの教室』と読み、その意を一段と強くしました。

本にもあるように、生きるために必要なのは、衣食住、だけではなく、そこにもう一つ、「便」を加えてみようと。

なんらかの事情でそれがままならない状況になると、その大切さが身に染みます。私はお腹を切る手術をした後にそのことを実感しましたし、父がお腹を切った後、出すことに本当に苦しんでいるのを目の当たりにしました。

本に書かれているように、食べることは生きること、でも、出すことも生きること。

学校で「ウンコ」をしたくない、我慢する、という子どもは多いそうです。まだ和式の便器が大半だそうで、汚い、臭い、そして時には、いじめや悪口のきっかけにもなってしまうからだそう。特に今は家のトイレが格段にきれいになり、ウォシュレットも普及し、なんなら自動で洗浄までしてくれますから、学校のトイレとのギャップはかなり大きいのかもしれませんね。学校の予算の使い道も、耐震と冷暖房が優先され、トイレはどうしても後回しになってしまう現実もあるとか。

トイレそのものの問題の他にも、「ウンコ」そのものへの教育も必要なのではないか、と思います。

著者が小中高生と取り組んでいるワークショップでは、「食べること」と「出すこと」はどのようにつなげられるのかを考える取り組みを行っています。食べてから消化し、排泄までの流れは描けても、逆のつながり、「ウンコ」から食べ物へのつながりを描く人はほとんどいません。「食べること」は「出すこと」につながっているとしても、「出すこと」は「食べること」につながってはいないと。それでもあえて逆のつながりを考えてもらうと、いろいろな「アイデア」が出るそう。

実際に日本下水道協会が始めた「BISTRO下水道」という取り組みはなかなか面白いです。「食育」ならぬ「便育」も普及させたいです。

トイレといえば、私には思い出すことが2つあります。

一つは釧路で入学した小学校のトイレ。
もう50年以上前の話なので、もちろん水洗ではなくいわゆる「ぼっとんトイレ」。また、「湿式トイレ」(この本で知りましたが、床を掃除する時には水を流してブラシで洗うことが前提のトイレ)で、いつも床が湿っており、薄暗く、単純に学校のトイレに行くのは「怖かった」。数だけはやたらと多かった記憶がありますが、奥の方にはとてもじゃないけど恐ろしくて行けなくて、いつも一番手前のトイレを使っていました。

もうひとつは、釧路で住んでいた家族寮に洋式トイレがやってきた日。
もう4年生くらいになっていたと記憶していますが、なんせ使い方を知らないので、母がトイレで実演!!して見せてくれました!!!
それでも記念すべき第一回目は派手に失敗した記憶があります(笑)

だいぶ話がずれました。
なんだか「ウンコ」を連呼してしまっていますが、近い将来、会話の中に当たり前に「ウンコ」が出てくる世の中になっていてほしいと心から思います。

だって、「食べなければ死に」ますが、「出さなくても死んで」しまうのですから。それに、「ウンコ」を見れば自分が健康かどうかもわかり病気を予防することだってできるかもしれません。調べてみると「便育」の取り組みは結構あるようですが、子どもたちに早いうちから教育として、家庭でも学校でも伝えていくことは大事なことだと痛感しています。


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