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「此処は時の住処。そして、私は時の女王」

 女王の言葉と共に、王子の時は止まり、世界中の時間は止まりました。

森の中には、全ての時間を統べる時の女王が暮らしていました。
時の女王は世界が生まれた時に生まれました。そして、世界が終わるその時まで生き続けることを定められていました。人の形をとりながら、人とは全く異なる女王は、誰とも会わず、何かと出会うこともなく暮らしていました。変わらない毎日は、湧きあがる気持ちも沈んでゆく気持ちも生まず、女王は楽しいことも寂しいことも知りませんでした。
けれど、ただ唯一、女王の心を色づける楽しみがありました。
それは、森の中の白百合を育てることでした。はじめは自生していた百合たちですが、女王に大事に育てられるようになると、百合たちはより一層美しくかぐわしく咲くようになりました。ゆりたちの美しい姿に女王の心は満たされ、匂い立つ芳香は女王の真っ白なドレスに染み込んでゆきました。
そうして、何十年何百年何千年と白百合と共に過ごしていた女王でしたが、ある日、女王の心の中に小さな靄が生まれました。少しずつ少しずつ靄は大きくなり、女王はふと、森の外を見てみたいと思いました。女王は外に出ることなく、川に映るものなら、どんなに遠くても見ることできました。そうして映し出されたのが、川を渡ろうとする東国の王子だったのです。
 一目見た途端、女王は王子を好きになりました。王子とずっと一緒にいたいと思いました。生まれて初めて見た王子は、女王が初めて愛した人間になりました。

 白百合の中で、気を失っていた王子はぱっちりと目を覚ましました。そして、ぼんやりとした眼差しであたりを見回し、すぐそばで見守っていた女王に尋ねました。
「貴女は誰なのですか?
そして、僕は一体、誰なのですか?」
 命の時間が止まった王子は、これまでの記憶すべてを失っていました。王子であることも、西国の姫を愛していたことも、なにもかも忘れていました。
女王は黙って王子の手を取り、真珠のように輝くお城に連れてゆきました。お城は外も中も艶やかな乳白色に彩られていました。すべてが夢のように美しく、魔法のように整然として、午後の陽射しのように穏やかな空気に包まれていました。お城は、孤独である女王に許された特別なお城でした。王子は記憶を失っていましたが、ここが他にはない素晴らしいところだと分かりました。
「なんと美しく、優しく、なんと寂しいところなのだろう」
王子が呟くと、女王は、王子を一番大きくて豪華な部屋に案内しました。その部屋の奥には玉座が一つ、置いてありました。
「いいえ。今はもう、寂しくはありません。貴方がいるから」
女王は微笑んで、王子の胸に頬を寄せました。
「此処は時の住処。私は時の女王。そして、貴方は私の恋人」
 
 記憶を失った王子は、女王のお城で暮らすようになりました。嬉しさも悲しさも楽しさも寂しさも分からなった王子は、自分の周りを過ぎてゆく時間をただぼんやり眺めて過ごしました。
時を失い、なにも感じなくなった王子の胸には、まるで月が通り過ぎたようにぽっかり穴が開いていました。あまりにきれいに穴が開いてしまったので、女王は王子の胸が寂しくないよう、花畑の中で一番美しい百合の花を一輪飾りました。百合の花は王子の胸に丁度良く収まり、かぐわしい匂いに王子は少しだけ微笑みました。
 それから、女王は、毎日、王子の胸に新しい百合を飾りました。優しく囁き、柔らかな眼差しを向け、穏やかな日々を王子と共に過ごしました。女王の献身と百合の香りを毎日受けてゆくうちに、王子の中には新たな感情が芽生えてゆきました。

世界は止まり、何万、何千年と過ぎました。森では絶えることなく白百合が咲き続け、お城の美しさは変わることがありませんでした。そして、女王と王子はお互いを慈しみあい、何にも代えがたい時を分かち合うようになっていました。長い時が、女王を愛おしく、大切に思う気持ちを王子の中で少しずつ少しずつ育てていったのでした。女王への愛情は王子の気持ちを温めました。けれど、王子の胸は相変わらず開いたままで、美しい白百合の花が一輪、飾られているのでした。

いつものように、女王が王子の胸に飾る百合を取りに城を後にしたある日、王子は自分も女王の為に何かしてあげたいと思いました。女王が喜ぶことをしてあげたいと思いました。女王の喜ぶものを知りたいと思った王子は、女王の部屋へ入りました。王子は、お城のどこへ行くのも許されていましたので、女王の部屋で一番大切にされているものを見つけて、自分も贈りたいと思いました。
王子が一番美しい化粧扉の引き出しを開けますと、その片隅に、繊細な飾りの施された華麗な小箱を見つけました。王子は一目でこれだと分かりました。喜んで手に取ると、ずきんと頭が痛みました。思わず頭に手をやろうとして、小箱を落としてしまいました。すると、床に転がった小箱の中から、真鍮で飾られた白い砂の砂時計が零れ落ちました。王子は慌てて拾おうとしましたが、よくよく見ていると、砂時計の砂は床に落としたのに、砂の一粒も動いていませんでした。それはまるで時が止まったかのようにしっかりと固まっていました。
(これは……?)
王子は不思議に思いながら、砂時計を拾い上げました。
その途端、砂はさらさらと流れだし、すうっと王子の手の中に吸い込まれてしまいました。王子はびっくりしました。急に頭が痛くなって膝をつくと、あ!と声を上げました。頭の中にすべての記憶が舞い戻ってきたのです。奪われていた記憶と、お城で過ごした時間が目まぐるしく頭の中で駆け巡り、王子は戸惑い混乱しました。けれど、混ざり合う時の中に、愛しい人の顔を見つけ、弾かれたように駆け出しました。その拍子に、胸から百合の花が零れ落ちましたが、王子は知る由もありませんでした。

「……貴方?」
 百合の花を手に王女が戻ると、王子がいません。誰もいない部屋の中を見回して、床に落ちている小箱と枯れ落ちた百合の花を見つけた王女は、すべてを察したのでした。


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