時の眠りと白百合の森~後編~
全力で森を抜け、川を下り、西の国へたどり着いた王子は、悲しみの涙に凍ってしまった姫を見つけました。王子は凍った姫を抱きしめて必死に語りかけました。
「姫!姫!愛しい姫!どうか目覚めてください!どうかどうか……愛しています、心から」
冷たい姫の身体に、王子の温かい涙がぽたぽたと滴りました。王子は体が冷えるのも厭わずに、姫を抱きしめ、愛の言葉を語り続けました。すると、姫を覆っていた涙の氷がゆっくり溶けて、姫の瞳はゆっくりと開きました。
初めはぼんやりとしていた姫の眼差しは、姫を見つめる王子の顔に気づくと、目を見開き唇を震わせて、一筋の涙を流しました。姫は小さく王子の名前を呼び、王子は姫の名前を囁き、ふたりは見つめ合いました。長い間そうしていると、ふと何かに気づいた王子がそちらを向いて呟きました。
「女王……」
王子の視線の向こうには、時の女王が立っていました。手には、一輪の白百合が握られ、透き通る瞳が真っ直ぐに王子を見つめています。
「王子」
凛とした女王の声が響きます。
「私と過ごした日々を、貴方はまだ、覚えているはず」
王子はだまって女王を見つめました。
「百合の花を胸に飾り、共に過ごした日々を、貴方はまだ忘れていないはず」
女王の瞳はゆっくりと潤みだし、
「どうか戻って。私の元へ……」
真珠のような涙が、ぽろりと女王の白い頬を零れ落ちました。女王の純白のドレスに一滴の雫が染みこんでゆきました。
「確かに、貴女を愛していました。心から」
王子ははっきりと言いました。女王と過ごした幸せな日々は、今でも王子の中にはっきりと残っていました。
「ならば」
「けれど」
女王の声を、王子は静かに遮りました。
「けれど、その心こそがかりそめだったのです。貴女に奪われた心の代わりだったのです」
王子の眼差しの中には、怒りも非難もありませんでした。ただ、優しい悲しみが穏やかに浮かんでいるだけでした。
「二つの心を持つことはできません。西の姫を求める心で、貴方の愛は受け入れられません」
それは、少しも入り込む余地のない決別でした。そしてその決意は、王子の心と体をしっかりと結び付け、別つことは誰にも、時の女王でさえできませんでした。
女王と王子を繋ぐものは、最早、何もありませんでした。
「女王」
王子が声をかけたその瞬間でした。
「ああ!」
女王の悲痛な声が空を引き裂くと、大きな風が突然、吹き荒れたのです。王子は思わず目を閉じ、再び、目を開けた時には、女王は嵐と共にかき消えていました。
王子は時を取り戻し、世界も再び動き出し、全てが元通りになりましたが、女王だけがいなくなってしまいました。
しばらくの後、東の国の王子と西の国の姫は結婚し、東の国と西の国は一つの国となりました。
大きな幸せに包まれた翌朝、王子は姫と共に、川のほとりに佇んでいました。その手には、両手いっぱいの白百合がありました。
王子は、百合たちを清らかに流れる川に流しました。
「かりそめの心で貴方を愛し、貴女の悲しみを知ってしまった私には、貴方を責めることはできません。愛しあう喜びを知っている私には、貴女がどれほどの寂しさの中にいるのか計り知れませんでした。私にできることは、ただ、あなたが幸せであることを祈ることだけ。百合たちが貴女の慰めになることを心から願うことだけ。
私の愛は、我が妃だけのもの。
けれど、この白い百合たちだけは、いつまでも貴方だけのもの」
それから毎年、この国では東の国と西の国が一つになった日に白百合を川へ流すようになりました。ふたつだった頃よりも一層の繁栄と幸福の中で、国は長きにわたって平和に幸せに暮らしました。
森の中へ流れ着いた白百合たちは、誰もいなくなった白いお城の周りで一層美しく輝き、静かに咲き誇っているのでしょう――。