
玄関を開ける時の設定
私が苦しいと感じてきたものは
苦しいと感じるべきでないことなのだと
節々でたくさんの人に言われた
私は誰もが苦しまないようなもので苦しんでるのか
それは苦しくないということになるんだろうか
苦しむことが
害悪なのか
そんなに馬鹿げた悲しみなのか
どうやってわかってもらえばよかったんだろう
蔑まれて生きてきた訳では無い
でも
苦しい内容を
誰かちゃんと聞いて欲しかった
今は聞いてくれる人もいると思うけど、苦しい内容を話すこと自体が
今の私には
とても苦しいことになってしまった
苦しい
きっと一生誰にも話せない
何も話せない
とかいう悲しみとかひんやりした劣等感を
誰に話すわけにもいかなすぎて自分に話して
解消してきたわけだけど、
私自身に関していえばそれは無駄な悲しみではなかった。
自分の感情を解決するためのノウハウを自分で考えられたってことだろうと思うし、
不用意に人に話して悲しみを増幅させる可能性を潰して、
その人に対して苦手意識を持つ可能性なんかも防いで、
それで普通に仕事して給料もらって美味しい物食べて、作って、また食べて、完成したものを書き残して。
そして、そんなことをポロッと口にしてしまったがために今度は可哀想とか言われてもね。
いや、よく見て!
踊りながら玄関くぐるような女が悲しいもんかよ!
世界中の人間がみんな悲しいし、みんな楽しいし、みんな何かに苦しんで、そして私はクルクル回って玄関潜りながら踊ってただいまとインコに言ってるわけだから。
苦しいことも通り過ぎる方法を知ればその後の帰宅は楽しいものでもある事を、
若い時に苦しみながら知ったんだから、
今はほんとに結果オーライと言える。
あの時苦しんで泣きわめいた自分に向かっていつでも言える。
どこをどう進んでも未来は結構ハッピーいろいろあるから好きなだけ泣きわめいて、止まらん涙の味を存分に知りつくそうな。
歳を重ねた後で、その質量の涙は(体力的に)流せないからそれを流しているだけでも、私という若者は随分頑張って生きたんだよ。
だから今楽しいことに向き合えるし、誰かを楽しくしてあげることも真剣に考えられる。
振り絞った涙の中身を忘れないことが歳を重ねた私ができる自分自信の供養だし
明日からも
踊りながら行ってきまぁすと言って、クルクル回りながら帰宅する。