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分人主義の捉え方がしっくりくる話

先日、佐渡島庸平さんの『ぼくらの仮説が世界をつくる』を読んだ。

この本のなかに、分人主義の話が登場する。

分人主義というのは、自分はこういう人間であるという「たった一つの本当の自分」がいるわけではなく、「家族といるときの自分もいれば友だちといるときの自分もいて、上司といるときの自分もいる」といったように複数の自分がいる状態をさす。

複数いるすべての自分が自分であるというのが、分人主義の考え方だ。ぼくは分人主義を知ったとき、すごくおもしろいなと思った。

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この前、Xでこんなポストをした。

分人主義の考え方

・本当の自分はいない
・「子どもと接しているときの自分」も「かしこまっているときの自分」もすべて自分

・自分のなかの「分人」は、相手によって引き出されるもの
・その相手が亡くなった場合、自分のなかの分人が登場することは、もうない
・分人を失った状態が「悲しみ」

本に書いてあった内容を、メモしたものだ。このメモの下の3つは、目から鱗とたとえたくなるくらい、なるほどと思った。すごく納得したのだ。

大切な人が亡くなったとき、人はものすごく悲しむ。心が引き裂かれるような気持ちになる。その悲しみも、分人の存在で説明できるという。

大切な人と一緒にいるときの自分は、相手といることで引き出される分人である。もし、大切な人が亡くなった場合、その分人が引き出されることはもうない。

相手といることで分人が引き出されると考える分人主義では、相手の存在が必要なのである。その相手がいなくなるということは、分人を引き出すことが不可能となる。大切な人が亡くなるというのは、相手を失うだけでなく、分人を失うことでもある。それが、悲しいのである。

というのが、分人主義の考えと知って、なるほどなあと思った。

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ぼくは最近まで、分人主義とは真逆といっていい考え方で自分をとらえていた。分人主義とはちがうが、別の本にも「自分というのは誰かとの関係性のなかで生まれる」といったことが書いてあり、これにも深く納得した。

親子というのは、親と子がいるから自分が親や子になれるのであり、自分ひとりだけだと親子は成立しない。この例からも、自分というのが誰かとのつながりによって確立されることがわかる。

なるほどなと思いながら本を読む一方で、人とのつながりが薄れている現代では、自分の存在がわかりにくくなっているのではないかと思った。

自分とはなにか?を、ひとりで永遠と考えているだけでは自分は生まれない。外に出て、誰かとのつながりを持たなくては生まれない。

むかしのぼくは、人とのつながりがほとんどなかった。自分というものが何なのかわからなかった。そんな自分にたいして、人とのつながりを持つことで自分がわかるようになると言ったら、どんな顔をされるだろうか。

受け止めてくれるだろうか。それとも、拒絶されるだろうか。

この世界には、まだまだ知らないことであふれているなあと、ぼんやりと思った。

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イガリハル
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