慶應文学部小論文1

 慶應文学部(以下、「慶文」と表記。)2016年小論文設問一の要約は前半、後半のバランスに私も悩みました。
ところで、大手予備校の解答速報は早慶ですら前年度しか解答解説が閲覧できなくなってしまったのですが文章レベルは例年より低いです。(河合塾は東大京大に関して複数年みられます。少し前は河合塾でも早慶が複数年みられたのですが。)
 しかし、設問一は長大な具体例を入れるべきか否か、ここは難しく慶文のやや難のレベルです。要約に入れる場合は、動物(ここも犬にするか動物にするかは迷うところです。)の命名行為も構造主義の影響にあるという論旨を崩さないよう、適切な理路をもって主部の後半に繋げていく必要があります。

 「テーマがズレてしまいます。」
 テーマがズレてしまう理由は、おそらく近視眼的になっているから。人間心理上、何かを夢中で書いている時は視野狭窄になりがちで対象化(鳥瞰的に)して物事をみられない心理状態、いわば、没入、になり易い。芸術ならよいけれど、入試では、「自分は何に対して解答しているのか。しなければならないのか。」を透徹した頭、冷静さでもって常に意識しておかなければならない。兄は旧司法試験を一度で合格したが、この「論文試験」というのが異常(異常です。)な難度であり、事例を考察している中途でそもそも解答するべきもの、俗にいう設問要求ですが、を旧司法択一試験を突破した頭脳明晰な者達でも失念してしまうのです。故に"意識"なのです。キミはたぶん書き初めはしっかり設問条件を把握し論述しようとしていたはずだったと思いますが、書いている間にいつの間にか持論を述べる事に執心してしまったのだと経験的に推察します。
 あと、推敲が甘いです。もしかしたらしていないかもしれません。というのも、これも人間心理上、「自分がある程度の自信をもって書いた答案は良いものである」という正常化バイアスが働くからです。そして、人間は誰しも多寡はあれど「面倒なことはしたく無い」性があるからです。推敲をするのは面倒であり、またアラを見つけたくない心理機制も作用し、結句、推敲を怠るのです。
 この二つに留意してください。

 「意見論述のメモの取り方がわかりません。」
 メモは、論じるべきテーマと結論までの論理展開をイメージし(このイメージ形成とキーワードの連想には知識拡充がどうしても必要。)キーワードを列挙しあてはめていく感じが意見論述ではやり易いです。当てはめる際はキーワード間の有機的関連性を意識。
 
 例えば、「自己と他者」をテーマとする場合、自己とは?→自己とは自我→アイデンティティ→価値(存在意義)→価値基準→他者による承認↔︎自己は自己自身を厳密には対象化できない(主観性の混入)→自己とは他者によって存在される。

 ここから、「だから助け合い〜」「だから共感や共生〜」「多様性の意義はここから〜」等々、有機的連関をもって主張を深化させていくことはできるでしょう。
 また、慶文では設問一の主旨理解を前提とし、それを踏まえたものになるため、「近代の問題(近代の諸問題が現代の諸問題の基底にある。)」にある程度(最低、Z会『現代文キーワード読解』は必要。)習熟していれば、課題文読解中、又は設問一作成中にテーマは浮かんできます。故にこそ、何度と無く訴えていますが、慶文(慶應)小論文では設問一こそが肝要であり、設問一に時間をかけるべきなのです。慶文は英語論述(端的にまとめられるか。)、日本史論述(端的にまとめられるか。)、小論文設問I(端的にまとめられるか)、つまり「端的にまとめられるか」にかかってると僕はみている。

 慶應文系を受ける人はみんな英語も社会もできる。実際に試験日の後、学校でも「慶文楽勝でした!」Twitterでも「慶文余裕でした!」みたいなのが雨後の筍のごとく湧いてきたけれど、大多数は全然わかっていなかった。原因は勿論「書けないから」。受験生の大多数が書けないから河合記述模試の平均は惨憺たるものになるし、昨日の東大実戦も国語はやはり悲惨だった。

 読むことは思索的営為であり、思索する事で着想や理解が深化されます。私の添削や他の模範解答については、事大主義的にただ唯々諾々納得するのでは無く、批判的検討をする時間を少し加えてみると小論文学習としては効果的です。つまり、「こう書いてある、こう指摘している。だけど、ああもあるんじゃないか。」等反芻することです。

 書き方や思考の展開は語彙力やキーワードに対する知識、書き慣れなどにどうしても依拠せざるを得ないから確立された方法論的なはありません。書いていくうちに、
・私はまず結論(例:人間は孤独ではない。←結論)を立てて、その結論に至るためのプロセスを、問題提起→具体例→予想される反論→反論を論駁→結論、みたいにした方がやりやすいな」

・「課題文に関わりのありそうなキーワードをとりあえず書き出していくうちに、それぞれの点(キーワード)が線になっていくな。これを論理的に繋げてみよう。」

・「私は課題文のなかからキーワードになるものをみつけ、ところどころ引用したりしながら論述していく方が、課題文を踏まえた意見論述になるし、課題文からヒントをもらえるから時間も節約できていいな」

等々わかってきます。また、あの水準を高校生あたりの年代が90分で読解→要約→意見論述、するのだから、ほぼ絶対的に大層なことは書けないです。慶法日本史で100点を取る為に猛烈に勉強した結果、日本史に時間を費やし過ぎて落ちてしまうように、小論文も完璧答案を狙うのではなく、必ずおさえるべきポイントを絞り、完全にイメージが具体化され、ゴールまでの道筋がひらめいていなくても書き始め、書きながら思考を積み上げていく感覚をみがくと良いです。
 「小手先のテクニック=悪」は受験産業のイデオロギーとして定式化されています。勿論、これは正論で私も常道的学習を生徒達に伝えてきて、今もその姿勢は変わりません。それでも、テクニックとは技術で、技術は有用だからこそ技術と呼ばれ、たとえ小手先であろうと技術である事には変わらないのです。
 従って、「小手先のテクニック=悪」という錦の御旗に甘んじて、指導者が合理的な学習への探究心を喪失し、旧来的な学習スタイルを「絶対善」と生徒達に喧伝するのもまた違うと私は思っています。前述したことはそのあたりも意識してのことです。

注:質問等は、私が余程誠実であると判断できない限り受け付けません。人間不信に今は陥ってしまっていますので。ご理解下さい。

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