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ショーペンハウアーに学ぶINFJの生き方―我々にはきっと天才の素質がある(と思いたい)
前置き
ショーペンハウアーという人物は、かなりINFJに親和性の高い哲学者だろう。もしこの記事を開いたINFJの方で読んだことがない方がいればぜひ一度読んでみてほしい。
彼については厭世思想(ペシミズム)の哲学者として有名だが、彼の著作の方向性はINFJの悩みの方向性と合致しているものが多いと思う。
主著『意志と表象としての世界』を理解した気になるためには、『根拠律の四つの根について』(彼の学位論文)の「根拠の原理」に目を通しておく必要があるし、カントとプラトンの哲学もある程度理解した気になっておく必要があるので、少しばかりハードルは高いかもしれない。
いきなりそこに入るよりも、まず入口として『読書について』『自殺について』『幸福について』などを読んでみることをお勧めする。
短めなので、noteを日常的に開くような活字中毒の方なら読み切れるかと。
普通に読み物として面白いし、多分実生活での会話で共感を得づらいINFJの皆さんに多くの共感と学びを与えてくれる気がする。
ちなみに、彼自身もINFJ(と評価する人が多い)みたいなので、そんな彼の思考が文字となっている著書を読むことで我々INFJが共感しやすいのは当然なのかもしれない。
さて、本題に入ろう。
本記事ではショーペンハウアーの『意志と表象としての世界』第三巻第三十六節で語られている「天才」の概念とINFJの主機能である内向直観(Ni)の関係性に着目し、INFJのNiの生かし方について考察する。
①「天才性」と「内向直観(Ni)」
ショーペンハウアーは天才を純粋な観照によってイデアを把握する能力に長けた人間としている。
なお、彼の言う「イデア」は「個々の物事の背後にある普遍性(本質)」という感じ(彼の用語を使うと「意志の客観化」と表現される)。
これ(天才性)はすなわち自己の関心、自己の意欲、自己の目的をすっかり無視して、つまり自己の一身をしばしの間まったく放棄し、それによって純粋に認識する主観、明晰な世界の眼となって残る能力のことである
つまり、目の前の対象が自分に対して与える影響を無視して認識する能力、客体としての自分の存在を頭から追い出して、ただ認識主体となりきって事物を捉える能力、などを指している。
この性質はユングの心理機能におけるNi(内向直観)の説明と共通する要素があるように思う。
この(内向的)直観は感覚の協力を撥ねつけてしまうため、神経刺激伝達の障害・無意識的なイメージが及ぼす身体への影響をまったく、ないし不十分にしか認識できない。このため、そのイメージは主体から切り離され、本人とは何の関係もなくそれ自体で存在しているように思われてしまう。
内向直観型の人間(INFJやINTJ)にとって、五感から受け取る刺激は内的イメージのきっかけとはなるが、それそのものをありのままに受け取ることは苦手で、自分の肉体との物質的関わりには無関心となりやすい。
また、天才に関する次の記述からも心理機能Niと関連する要素を見出せる。
……天才が想像力を必要とするのは、事物のなかに、自然が現実に形成し終えたものを見るためではない。そうではなく、自然が現実に形成しようと努力はしたが前の巻に述べた自然の諸形式どうしの闘争のためについに形成を果たしえなかったものを、事物のうちに見るためなのである。
「自然が現実に形成し終えたもの」というのは「今目の前にある個々の事物」を指し、「形成を果しえなかったもの」というのは「背後にある可能性」とも言い換えられるだろう。
心理機能Se(外向感覚)が五感によって捉えた個々の事物をありのままに感じ取るのとは対照的に、Niはその背後にある共通性や可能性を捉えるのに働く。
また、一般的にINFJは極論を口にすることが多かったり、ドアスラムに代表されるような極端な行動を取ることが多いとされる。もちろん、これらの考え方や行動の背景にはINFJなりの直観、場合によっては理屈があるものだが、客観的には「極端」と表現されるものだろう。
ショーペンハウアーの言う「天才」にも次のような特徴がある。
個々の手近にある事物のなかで不完全にしか存在しないもの、また変容を受け弱められて存在するにすぎないものが、天才のものの見方によってそれのイデアにまで高められ、完全なものに高められるのである。だから天才はいたるところに極端を見る。まさに、同じ理由で天才の行動は極端にはしる。彼は中庸を守るということを知らない。彼には穏当さNüchternheit(正気、冷静さ、分別、節度)が欠けている。
つまり、想像力(思い込み)で補完する能力が強い。だから思想や行動が極端になりやすい。傍から見ると支離滅裂で、狂気と紙一重かもしれない。
②「天才の条件」
なお、その性質上、ショーペンハウアーは天才性の条件として想像力を挙げているが、想像力が高いからと言って天才の根拠とはならないとも言っている。
彼は想像力の高い人間を天才と空想家に分け、幻想の直観について、以下のようなことも書いている。
【天才】
・幻想はイデアを認識するための手段
・イデアの認識を芸術によって伝達
【空想家】
・人を欺いたり喜ばせたりするため(利己心と気紛れ)
・幻想と幻想の相互関係のみを認識
・自分の孤独な遊びである映像を現実の中へ混ぜ入れる
つまりは、想像力は不完全な現実の事物からイデア(普遍性)を認識する際の補足に使用されるべきであり、利己的な目的のために妄想たちで積木遊びをするような使い方をするべきではない、ということが言いたいのだろう。
加えて、ただイデアを認識するだけではなく、実際に芸術という形でそれを表現することの重要性も説いているように感じる。
自分が認識した事物のイデア(普遍性)をそのまま正しく芸術という形に落とし込む。それによって他者へと自分の認識したそれを的確に伝えること。それが大事なのだろう。誰かを喜ばせるためや自分が評価されるためにそれをゆがめてしまったものはその価値を失ってしまうのだろう。
③ Niの生かし方
ここまで、ショーペンハウアーの言う「天才」とINFJの主機能Niに共通する性質について説明してきた。
INFJであることが、そのまま「天才」となるわけではないが、主機能であるNiのもつ特性がその条件と類似する以上、INFJであることは彼の言う「天才」の条件の一部を満たしているとも言えよう。
つまり、INFJには天才の素質があるとも言えるかもしれない。
ただし、これはしっかりと自分の主機能Niを生かしている場合だ。
主機能Niで認識したものをしっかりと形にすることが大事なのだろう。
ショーペンハウアーはそれを「芸術」と表現しているが、イデアの表し方はそれに限らないのではないだろうか。
自分の直観したものを他者に伝わる形で表現すること。その形は「音」、「絵」、「彫刻」、「文字」など様々だろう。もちろん、表現方法によってその伝わりやすさには違いが出てくるかもしれないが、形にして発信すればそこからイデアを読み取る人はきっといるだろう。
INFJが無意識に使っているNi。それによって私たちは「なにか本質的なもの」を感じ取っていると思う。それらを自分の中だけに留めておくのではなく、表現すること。
表現してはじめて、私たちの主機能は「役に立つ」のだ。
あとがき
ショーペンハウアーが「天才」として、肯定的に記述している人間は社会一般で「天才」される人間とはもちろん違う。
けれども、INFJの自己実現に向けては参考になるところがあると思い、本記事を投稿した。
INFJの自分自身、同じINFJの方々の文章や絵などの創作物に惹かれることが多い。この記事を読んだ方であまりそういった活動を実践したことがない方がいれば、ぜひ取り組んでみてほしい。
noteで自分の普段考えていることを文章として書き起こすだけでもいいだろう。
一人でも多く、「天才」に至るINFJの方が増えることを切に願う。