「成熟」という言葉が嫌いだ。
私は成熟という言葉が嫌いだ。
毎日のように私は変化を遂げている。
一つ新しいことを知り、きっと一つ古いことを忘れている。
私たちはそうした変化を「成長」として賛美したがる。
けれども、そうした変化の多くは、環境に適応するために強いられたものだ。
良いものか、悪いものか。そういったものではなく、ただその人が生きていく中で必要な変化であっただけだ。
私たちが「成長」と呼びたがるそうした変化は、ただその人が生きてきた環境を反映しているに過ぎない。
私たちは過去の自分を否定したがる。
そうすることで、今の自分を肯定しようとする。
「過去の自分は未熟だった」
「私は大人になった」
そうして、積み重なった「成長」を「成熟」として、肯定する。
そして、過去の自分と似ている人間を見て、「未熟」と判断する。
このプロセスが、私は嫌いだ。
相手のおかれている環境、そして相手の歩んできた人生が昔の自分とぴったりと重なるわけではない。決して、過去の自分と似ている目の前の相手が自分よりも「未熟」なわけではない。
過去の自分だってそうだ。過去の自分よりも今の自分が優れていると思いこみ、変化を「成熟」として美化するのはやめないか。確かに今の自分は過去の自分とは別の人間だ。変化をいいものだと思い込むのではなく、今の自分自身がどう在りたいかと向き合わうべきではないか。
歳を重ねていけばいくほど、その歳月に意味があったと思い込みたくなるのはわかる。
けれども、他者を未熟と断じて、自分の変化を正当化し、月日の流れだけで優越感に浸るような人間には決してなりたくない。
「変化」に良いも悪いもなく、ただその時時で周囲の環境に適応するために、そう変わらざるを得なかった、ただそれだけのことだ。
過去の自分を美化する必要も、未熟だったと軽蔑する必要もない。
ただ、昔はそう在り、今はこう在る。
もしくは昔はそう在らざるを得なかったが、今はこう在らざるを得ない。
そこに優劣はない。
他人に対してもそうだ。貴方はそう在らざるを得ないし、私はこう在らざるを得ない。
それだけのことなのだ。
歳月による変化は階段を登るようなものではない。
高いところに行くこともあれば、低いところに行くこともある。
そして、誰一人として全く同じ道を進んでいくものなどいないのだ。
だから、相手よりも自分が高いところにいるように思い込み、相手を見下すのは滑稽だ。往々にして、自分より下にいると思い込んでいる人間は自分よりも高いところにいるかもしれない。
重要なのは、相手がどこにいようとも、目を合わせようと努めることではないか。
自分自身に対しても同じことが言える。今の自分が過去の自分よりも上にいようが下にいようが関係ない。今の自分自身に焦点を合わせることが大事ではないか。
今の自分がどう在りたいのか。これからどう変化したいのか。
目の前の相手がどう在りたいのか。これからどう変化したいのか。
そこに目を向けられる人間で在りたいものだ。