自己紹介~育児で泣いていた私が笑顔になった裏側~
涙が止まらない帰り道
5年前。会社から帰る電車の中での出来事でした。
悲しくもないのに、自然に涙があふれ出して止まりません。
家に帰って早く娘に会いたいはずなのに、身体が拒否してる・・・。
この時初めて「私、病んでるな」と気付いたのです。
当時の私は仕事と育児に追われ、心身ともに限界でした。
でも、もうダメだと知りながらも、どうすれば抜け出せるのかわかりませんでした。
そんな私が、自分を大切にし、自分の心の声に添って素直に行動した ことで、自分らしい生き方「自由な働き方」にたどり着きました。
どのようにして「自由な働き方」を手に入れたかは、こちらのnoteで詳しく解説していますので、ご興味があれば読んでくださいね。
今では「毎日忙しいけど、楽しくて仕方ない」とさえ思えるようになったのです。
今の時代、まだまだ子育て中の女性にとって、働きやすい社会ではありません。
でも社会の仕組みを嘆くよりも、たった一度の人生を、好きな仕事をしながら、大切な家族と笑顔で過ごせたら最高ですよね。
ほんの小さな一歩を踏み出せば、生き方は変えられます。
こんな私でもできたんですから。
この度は、このnoteをご覧頂きありがとうございます。
私はTwitterで、「自分軸の作り方」をテーマにした発信活動をしている“はる”と申します。
「自分軸で自由に生きる女性を増やしたい」という思いで、約1年間の発信活動を継続し、おかげさまで3,000人(リリース当時)ものフォロワーさんとご縁を頂くことができました。
発信活動を続けてきた中で、「どうすればそんなに余裕が持てるのですか?」
「どうやって仕事と育児を両立しているのですか?」というご質問を頂くようになりました。
それと同時に「自分も変わりたいけど、一歩踏み出せない」「どうすればいいかわからない」という悩みをお聞きする機会も増えました。
今回は、私の経験が育児や仕事で悩みを抱えるママにとって、何かの気づきになればと思い、このnoteに纏めました。
このnoteは、こんな方に読んで頂けたら嬉しいです。
それでは本編に入ります。
長文ですがゆっくりお付き合いくださいね。
女の子らしさとは無縁の幼少期
私は父と母、2歳上の姉の4人家族で育ちました。京都にある実家は祖父が始めた糸屋を営む自営業。母は2代目。父は婿養子でした。
姉は子供のころ身体が弱く、両親はいつも姉のお世話でバタバタしていたのをよく覚えています。
私は親に負担をかけないように、知らず知らずのうちに「しっかり者」に育っていきました。
何でも器用な姉と何をやっても飲み込みが悪い私。
でも負けるのが嫌で、できるようになるまで努力するような子でした。
競争相手の姉がいたおかげで、クラスの中では何でもできる優等生。
お人形やままごと遊びのような女の子らしい遊びは苦手で、いつも男の子とドッジボールや野球をして走り回っていました。
友人の家で集まって「バレンタインデーのチョコをみんなで作ろう!」
そんなイベントの時でも、不器用な私が手伝おうとすると「はるちゃんは見ててくれたらいいよ」と言われてしまう始末。
「女の子らしさ」とは無縁でした。
家では母に構って欲しくて、いつも後をくっついて回っていました。
高学年になると母を想う気持ちが反抗という形で出てしまい、長い反抗期に突入します。
それでも、跡継ぎとして産まれ、自由に生きることを許されなかった母からは「はるちゃんは、自由に生きなさい」「世界中どこに行ってもいいのよ」「そのために手に職を付けなさい」と繰り返し言われていました。
しかし、自営業が多い地域で育ったせいか、友達のお母さんは家業を手伝っているか、主婦の人がほとんどでした。
お母さんが日中不在だったのは、看護師さんや保育士さん、学校の先生など専門職のごく限られた家庭だったように記憶しています。
昭和60年代という時代もあったのでしょう。
私は「お母さんが主婦の子はいいな」「お母さんが家にいない子はかわいそう」と子供ながらに思っていたので、これが後の自分を苦しめることになります。
進学と就職~親元を離れての生活~
進路選択の時には「手に職を付けること」を意識するようになり、理数系が得意ではなかったのですが、「男子が多い環境の方が、私には合ってるかも」。
そんな単純な動機で地方の大学の工学部に入学し、「必ず帰ってくる」と約束し、親元を離れての生活が始まりました。
スノーボードのサークルに入ったのをきっかけに、雪山に魅了されていきます。
毎日、男友達に囲まれての生活。男子5人と女子は私1人のグループで遊ぶことが日常で、一緒に遊べない日は彼らがコンパに行く時くらいでした(笑)。
私が家事全般を苦手なことはみんな知っていたので、誰も私に「女としての役割」を求めることはなく、自立した人と人として、とても自然体で居られる心地よい関係でした。
私は元々働くことが好きなタイプではありませんでした。
学生時代のアルバイトも長く続いたのは家庭教師くらいです。
「そんなので就職してやっていけるの?」よく友達からも心配されていました。
自分がしたいこともわからず、何のために働くのかもわからない状況でした。
就職を考え始めた時、研究室の教授からは「実家に戻らなくていいのか?」と繰り返し尋ねられました。
「そんな女子学生はこれまで見たことない」と呆れられていましたが、「まだスノーボードを辞めたくない」それだけの理由でその地方に残ることを決めました。
母親には「産んでくれてありがとう。やりたいことがあるから、もう少しだけわがままをさせてください」という手紙を書きました。
長い反抗期だった私から、初めての『ありがとう』の手紙を読んで、母は泣いていました。
複雑だったと思いますが、父を説得してくれたのも母でした。
卒業して大手半導体メーカーの研究職に就きました。
研究職と言っても毎日の実験は工場でほぼ立ちっぱなし。
「この仕事は若いからできるけど、長く続けられる仕事ではないな」と感じていました。
でも休日が多く、給料も良い。
スノーボードを続けるためには最高の環境でした。
でも同期は院卒で頭が良い人ばかり。大学のキャンパスよりゲレンデで過ごした私は同期一の落ちこぼれでした。
毎日仕事は早朝から夜遅くまで続きましたが、職場の仲間との団結は強く、楽しい職場でした。
仕事の内容は難しく、とても楽しいとは思えなかったのですが、世の中にないものを生み出すやりがいはありました。
かわいがってくれている上司の期待に応えたい、協力してくれる現場の仲間の気持ちをムダにしたくない。そんな気持ちで毎日奮闘していました。
入社3年目のある時、担当していた製品の量産化に向け、アメリカ出張のチャンスが巡ってきました。
そのことを母にだけこっそり報告していたのですが、飛び上がって喜んでくれたのを覚えています。
母の病気と退職
1週間の出張から帰国して携帯の電源を入れると、何十件も姉からの着信とメールが入っていました。
「何かあった?」心がざわつきました。
その不安の通り、姉から「母に癌が見つかった。余命は3ヶ月・・・。」と泣きながら告げられました。
天国から地獄へ突き落とされた気分でした。
アメリカでは、当時25歳の私でも、会社を代表する一人前のエンジニアとして扱われます。
会議でも必ず「はるは、どう思う?」
中学生レベルの英語で答えてる私の意見にも真剣に耳を傾け、尊重してくれる風土がありました。
男女も年齢も関係ありません。
「この仕事楽しいかも」ちょうど思い始めた矢先の出来事でした。
でも私には迷いはありませんでした。
すぐに退職し、実家に戻ることを決めました。
当時、癌を本人に告知することはまだ一般的ではなく、母には告げていませんでした。
「何でちょっとしたポリープを切るだけなのに、仕事辞めて帰ってくるの?」「私はあなたの足を引っ張りたくない」と寂しそうに言われました。
でも「帰ってくるな」とは言われませんでした。
このタイミングがなければ、母との約束を果たせてなかったかもしれません。
その後、入院している母。父、姉、私の3人での生活が始まりました。
私は無職で、わずかな退職金と貯金を切り崩して生活をしていました。
毎日家と病院の往復や慣れない家事。
これまでとは違った意味で大変でした。
そのころ友人達は海外旅行やコンパ、彼氏とデートなど、独身生活を謳歌していました。
久しぶりに家族がそろう生活は幸せで、それを選んだことには1ミリの後悔もありませんでした。
でもやっぱりうらやましい気持ち、自分だけ取り残されているような焦りがありました。
その後、手術・治療を続けながらも母の容態は予想以上に良くなり、私は製薬会社で派遣社員として働くようになりました。
当時26歳。頭の中でぼんやりと「30歳までには結婚する」と思っていたので、「今から正社員で働いても中途半端になるんじゃ?」という考えでの選択。
結婚して子供が生まれたら、主婦になることを前提としての人生設計でした。
一方で、家事手伝いの経験から「私って主婦には向いてないな」ということにも薄々気づいていました。
母の旅立ちと再就職~医療の道を目指して~
製薬会社で1年が経過したころ、派遣社員として任せてもらえる仕事に限界を感じ、「やっぱり正社員になりたい」と思うようになりました。
そのころから母の症状が少しずつ悪化し、痛みを抑えるための入院生活が続きました。
覚悟はできていましたが、癌の発見から3年後、母は天国へ旅立ちました。
気持ちが少し落ち着いた頃、就職活動を開始します。
母の闘病中、毎日癌の治療法や抗がん剤について書籍やインターネットで勉強していたので、自然と医療について関心を持つようになっていました。
医療関係の仕事を求めて、転職エージェントに登録したのですが、当時はまだ就職氷河期の真っ只中。
「女子の技術職で、さらに未経験での採用は無理ですね」と言われ、夢は砕かれてしまいます。
仕方なく、これまで経験のある半導体業界で、子供が産まれても家で続けられそうなスキルを身につけるために「設計」の仕事を選びました。
再就職とキャリア
未経験の私を受け入れてくれた、家の近くのベンチャー企業へ入社。
そこで回路設計の”いろは”を学びました。
入社して2年後、創業者である社長の持病が悪化し、会社を畳む話が持ち上がります。
運良く、取引先だったIT企業に引き取られるような形で、転職が決まりました。
当時29歳。IT業界の経験は無し。新卒と同じ扱いで、またゼロからの出発です。
同年代の社員の中には既にリーダーや管理職候補になっている人もいて、「早く一人前になりたい」。
その気持ちだけで毎日遅くまで仕事をし、通勤時間は全て勉強に充てました。
30歳で今の夫と結婚。ほどなくして夫は会社員を辞め、起業します。
事業が軌道に乗るまでの間、お給料が出ないこともあり、私が家計を支えていました。
「お金がないから夜のバイトにでも行こうかな?」と本気で考えたこともありました。
でもどう考えても私には向いてない・・・。
「今の仕事で昇級するのが一番の近道」と腹をくくりました。
運良くポストが空いていたこともあり、35歳で課長に昇格。
管理職になれたことよりも、仕事を認められたことが素直に嬉しかったです。
やがて会社の規模は大きくなり、ヘルスケアや医療に関連したお仕事も頂けるようになりました。
時代の流れも合ったと思いますが、医療分野への進出を社の方針として掲げ、その責任者として抜擢されたのです。
仕事が楽しくて毎晩遅くまで働き、仲間と飲み歩き、夫と終電で待ち合わせて帰る。
出張で国内を飛び回り、おいしいものを食べ、好きな時に海外旅行に行き、ショッピング、おしゃれなお店での食事、そんな自由な生活を送っていました。
これ以上の幸せは無いと思っていました。
人生の転換期・決意した不妊治療
そんな時、上司がメンタルダウンし、会社を辞めてしまったのです。この上司は前の会社の時から私を育ててくれた人。全信頼を置いて背中を追っかけてきた、最も尊敬していた人でした。
私は辛くて1週間泣き続けました。
その後、社内の組織が整備され、心にぽっかり穴が空いたまま私は新規事業部に異動になりました。
これまで技術者として生きてきたのですが、与えられた仕事は商品企画。
何を目標にしていいのかわからず、「働く意味とは?」「何を目指すのか?」「何のために生きるのか?」自己啓発書を読みあさり、ずっと考えていました。
当時38歳。たどり着いた答えは、、、
「人生で一つやり残したことがある。それは子供を産むこと。」でした。
でも今のままの生活では、子供を授かるはずがない。
悩んだ結果「仕事を辞める」決意を固めました。
「全力で走り続けた歩みを一旦止めて、ゆっくり考える時間が欲しい。このままじゃいけない。」
私にはそれしか選択肢はありませんでした。
上司に退職の意思を伝えると、毎日のように昼も夜も食事に誘われ、全力で引き留められました。
「働き方を変えたい」という私の申し出は通らず、残るか辞めるかの選択肢しかありませんでした。
退職が正式に受理されてからも、毎晩の説得は続きました。
「こんなに私を必要としてくれる人はいないかも。頑張らなくてもいいから、続けてみよう」と思い退職を撤回しました。
この時、全力で引き留めてくれた上司のことは私の恩人だと思って、今でもずっと感謝しています。
夫とも何度も話し合い、高度不妊治療が始まりました。
結果的にかかったのは○百万円。まあまあいい車が買えるくらいの費用です。
もしあの時仕事を辞めていたら、子供に会えるまで治療を続けられなかったと思います。
流産・妊娠・出産へ
会社の休憩時間に採血に行き、退社後、採血の結果で注射。
何度も何度も長い待ち時間のある通院・治療を繰り返し、39歳で妊娠。
「私もママになれるんだ!」喜んだのもつかの間。
妊娠6週目で「赤ちゃんの心臓が動いていません」と言われ、頭が真っ白になりました。
耐え難い、辛い辛いできごとでした。
先生からは「高齢出産ではよくあること」という説明を受けましたが、原因を全部調べて欲しいとお願いしたところ、「不育症」であることがわかりました。
これを防ぐためには血液が固まりにくくなる注射が必要です。
毎日、自分で朝と夜の2回注射を打ち、約半年後、40歳で2度目の妊娠。
「なんとしてでもこの命を守らなければ」毎日必死でした。注射の打ち過ぎで体中があざだらけでした。
41歳。臨月で検診に行くと、「明日から入院して、赤ちゃんが産まれやすいように、薬を使って準備していきましょう」と言われました。
次の日、病院に着くとすぐに検査が始まりましたが、なんだかざわざわしています。
少しして「赤ちゃんが苦しそうにしてるから、すぐに出してあげましょう」という先生の指示で、帝王切開の準備が始まりました。
血液が固まらない注射をしている中での帝王切開。
不安も一瞬頭をよぎりましたが、「産むしかない」覚悟が決まりました。
産まれてきたのは、これまで見たことがないような、かわいい女の子でした。
ここから幸せな子育て生活が始まるはずでした。
でも育児を楽しむ余裕はなく、想像を絶する辛い生活が続きます。
頑張り過ぎた初めての子育て
育休中の生活は、毎日が不安でいっぱいでした。
夫が仕事に行く時は「え?私達を残して行ってしまうの?」
いつもそんな思いでした。
24時間授乳のことを気にしながら生活し、おむつ交換、寝かしつけ、この繰り返し。
食べたいものも食べられず、抱っこしながらでも食べやすいおにぎりを頬張り、トイレにさえ自由にいけない生活。
でも子供を生かすこと、自分達も生きることで精一杯でした。
子供が苦手だった私。赤ちゃんのあやし方もわからず、いざというときに気の効いた子守歌も出てこない・・・。
ネットで調べながら、話かけたり、状況を独り言のように解説したり、歌を歌ったり、ずっと一生懸命でした。
娘は繊細で、わずかな音でもすぐに起き、少しでも温度の変化や光があると敏感に感じ取り、泣いてばかりいました。
抱っこしてゆらゆらしないと眠れない。昼も夜もずっとでした。
抱っこのし過ぎで生後3ヶ月のころに腱鞘炎になり、手に力が入らなくなりました。
サポーターをしたり、手の甲で抱っこをしたり、ネットで調べたありとあらゆる対策をして抱っこを続けていました。
今なら「もうちょっと手を抜いても良かったんじゃない?」と思えますが、当時は右も左もわからない初めての子育て。
「ちゃんとしなきゃ。」とにかく必死でした。
会社からのメールは時々見るように言われていましたが、そんな余裕は全くありませんでした。
余りにも遠い世界の出来事に思えて、見る気にもなりませんでした。
「今の仕事が好きかどうか」
そんなことも未だわからない状況でしたが、「早く社会に戻りたい」「外で働きたい」そんな気持ちがふつふつと沸いてきます。
このままでは「私が私じゃなくなってしまう」そんな感覚でした。
でも「こんなかわいい子を0歳から保育園に預けるの?」「お母さんには家にいて欲しかったんじゃないの?」身勝手な自分を自分で苦しめていました。
父からも「やっとできたかわいい子を0歳から保育園にいれるのか?」と聞かれ、答えに詰まりました。
「やっぱり3歳までは家で育てた方がいいんじゃ?」「保育園より幼稚園」色んな声が周囲から聞こえてきました。
悩みに悩んだ結果、『娘に誇れる仕事をすること』を自分との約束事として、復帰するを決意します。
育休復帰とメンタルダウン
生後10ヶ月の時、始めは2時間の時短勤務という形で復帰しました。
幸い近くの保育園に入園。近くに住む義母はとても優しく、頼めばいつでもサポートをしてもらえる状況でした。
夫と義母との役割分担にも慣れ少し余裕が出てきたことと、仕事への中途半端な関わり方が嫌で、すぐに1時間の時短勤務、さらにフルタイム勤務へとシフトしていきました。
ちょうどその頃から夜泣きのピークが訪れ、寝始めてから1時間毎に泣いて起こされます。夫も帰宅後は交代で見てくれていましたが、お互いに限界です。
眠い目を擦りながらずっと抱っこでゆらゆら。私が寝てしまったら娘を落としてしまう・・・。
壁に頭をぶつけ、足をつねりながら必死で起きていました。「いっそ、この手を緩めたら・・・。」自分が怖くなって夫をたたき起こし、生きてる心地がしない生活が続きました。
それでも仕事は待ってくれません。
会社に行けば、大規模プロジェクトの責任者として、重要な判断を迫られることも多々あります。
家に帰ると大人と子供の食事の準備、娘にご飯を食べさせ、お風呂、片付け、明日の保育園の準備、寝かしつけ・・・。
当時はまだよちよち歩きの頃。家事や育児がスムーズに運ぶことはなく、すぐに泣いたり、抱っこかおんぶで家事をしたり、身体も心も休まる暇はありませんでした。
そんなある日、会社から帰る電車の中で、自然に涙がこぼれてきたのです。
「人前なのに何で泣いてるんだろ?」恥ずかしくて、止めようとしても止まりません。初めての経験でした。
メンタルの強さと体力だけには自信があったのです。「メンタルが強いと思っている人に限って危ない」こともわかっていました。
この頃の育児は、私がかつて経験したことのない辛い日々でした。
精神論や根性論ではどうにもならない世界がそこにはあったのです。
誤解のないようにお伝えしておくと、もちろん娘はかわいいです。大好きです。
「この子のためなら命だって惜しくない」自信を持って言えます。
それでもどうしようもない辛さに襲われ、この状況がいつまで続くかわからない・・・。
孤独、焦り、落胆、疲労・・・。
暗いトンネルの中にいました。
子供がかわいいからこそ、「自分で何とかしなきゃ」「母親だから頑張らなきゃ」と苦しかったのかもしれません。
なんとかメンタルダウンから抜け出したものの、仕事と育児に追われるだけの慌ただしい毎日。
鏡の前で疲れた自分の顔を見て「こんなはずじゃなかった・・・。」と思いながらも「でも、今はどうしようもない・・・。」と眼を背けていました。
「このままでいいの?」ふと思うこともありましたが、どうしていいかわからない・・・。
どうすれば、この無限ループから抜け出せるのか・・・。
テトリスのようにどんどん落ちてくるタスク。常に動き続けないとやることが増え続けるだけ。
起きている時間は、タスクを必死で裁いて倒れ込むように眠る。
そんな毎日で、ただただ時間だけが過ぎていました。
夫との危機と家出
当然、こんな精神状態で夫と上手くいくはずがありません。
「私はこんなに頑張っているのに」「なんでわかってくれないの?」「自分だけ休めてずるい」いつもそんなことばかり考えていました。
子供が産まれるまでの11年間、とても仲が良かったのですが、何度も「離婚」の二文字がよぎりました。
「喧嘩の原因は何だったのか?」当時のことはほとんど覚えていません。でも、毎日夫の姿を見るだけでイライラしていたのをはっきりと覚えています。
ホルモンバランスと疲れの問題もあったのですが、「出産と同時に自由がなくなった私とは対照的に、自由な生活を続けていること」それが一番のイライラの原因だったように思います。
毎日自分の意思で起きて、会社に行く。仕事が終わったら帰り、好きな物を食べ、好きなテレビを見る。
家に居る時は、何でもやってくれていたのですが、いつでも手放せる状況。一人じゃない。私という受け皿が必ずあるのが、うらやましかったのです。
ある土曜日。いつも通り夫は仕事、私はいつも通りワンオペ育児です。
夫がいない間に「家出してやる!」人生初の試みです。
子供を連れて隣の県に住む親友Aのところに行きました。彼女は3人の子育ての真っ只中で、会ったのは5年ぶりでした。
でも勢いで決めた割に、家を出る前には部屋をきれいに片付け、洗濯物を畳み、いつもと同じ行動をしていたのです。
ふと気づいて「私ってどこまでバカなんだろう・・・。」自分の姿がなんだか滑稽で笑ってしまいました。
夫が帰って来た頃には、普段と変わらず夕食を作っていたので、もちろん夫は何も知りません。
Aは中学の同級生で、何年も会わなくても信頼できる、良き理解者です。
Aにこれまでのことを話すと、私を全部受け止めて「よくがんばったね」と褒めてくれました。
涙が止まりませんでした。
次に言われたことは「今一番何がしたいの?」です。答えに詰まりました。
そうです。
自分の感情を押し殺して生きてきたせいで、何がしたいかさえわからない深刻な状況になっていたのです。
その時にもらったアドバイスで、一つ一つ考え方、行動を変えていきました。
ここから私の人生が少しずつ動き始めます。
「もしあの時」行動しなかったら、今の私はここにはいません。
泣きながら我慢して家族を演じているか、離婚していたか、病で倒れていたか、自分を見失っていたかのどれかでしょう。
笑顔になれた5つのポイント
私は現在、47歳。医療機器ベンチャーでフルタイム勤務の会社員として、完全リモートワークというスタイルで働いています。
大半の家事と育児をしながら、すきま時間でコンサルの副業もしています。
晴れた日は、散歩をしながら心地よい風や青空、鳥の声を感じ、休憩時間はダンスや筋トレで健康な身体作り。
さらにTwitterでの発信活動。
毎日が楽しくて仕方ありません。
娘を保育園に送る前には、お絵かきや折り紙。
帰宅後はおしゃべりや習い事。
「ママ、見てー!」と呼ばれたらすぐに駆けつける。
そんな幸せな時間をかみしめています。
ではなぜ暗いトンネルから抜け出し、笑顔になれたのか?
5つのポイントを整理してみました。
「育児で泣いていた私が笑顔になれたポイント」は、こちらの5つです。
1.自分を一番大切にするために時間を作ったこと
自分のことを考える時間もなく過ごしていましたが、まず自分のやりたいこと、気持ちを全部紙に書き出しました。
次に、初めはたった5分の自分時間を作り、身体を休め、考える時間に充てました。
私が初めにやりたかったのは、「ゆっくりお風呂に入ること」でした。
そのために「自分の気持ちを人に伝えること」を意識し、やってもらったことに感謝する。また、素直に言えた自分を褒める。
そんな小さなことを繰り返すだけで、次は「コーヒーをゆっくり飲みたい」「読書したい」といった感じで、一つずつできることを増やしていきました。
毎日自分の心の声を聞くことで、自分らしさを取り戻していけた気がします。
2.自分軸を「掘る・見つける・伸ばす」を徹底したこと
目の前のことだけに追われるのではなく、「将来どうありたいか」を考えました。
そのために自分は何者か、徹底的に自己分析し、自分の得意なこと、やりたいことを紐解き、紙に書き出していきました。
将来の自分のありたい理想の姿、家族の理想の姿から逆算して、今何をすればいいか、何をしたいかを決め行動しました。
忙しい日々は変わりませんが、「人のため、会社のために働く」のと「自分がしたいこと」「自分がありたい将来のため」に時間を使うのとでは満足度が全く違います。
将来を見据え目線を上げたことも、自分軸で生きるためには、必要なことだったと思います。
3.家族も仕事も大切にできる「自由な働き方」に変えたこと
自己分析の中で、私には「仕事」と「家庭」のどちらも大切だということがはっきりわかったので、どちらも諦めない働き方をめざしました。
「絶対なくしたくないもの」「なくてもいいもの」「一時的に我慢するもの」を決め、転職活動をしました。
1回目の転職では全てを手に入れることはできず、2回に分けて、段階的に私にとっての理想の働き方を叶えたのです。
捨てたものは大きく2つ「管理職のポスト」と「通勤」です。
「通勤」をなくしたおかげで、出勤前と帰宅してからのバタバタした時間がなくなりました。
これだけでも「時間の余裕」と「心の余裕」に大きな変化がありました。
娘と遊んだり、おしゃべりしたり、習い事に行ったり、娘がやりたいと言ったことは、ほとんど叶えられるようになりました。
「管理職のポスト」を捨てたため、ストレスが激減し、やりたい仕事にコミットできるようになりました。
いわゆる年収を上げるための転職ではありませんでしたが、家にずっといるのでムダなお金を使わなくなり、浮いたお金で積み立てNISA、空いた時間で副業も始めたので、お金の面でも少しずつ余裕が出てきています。
「自由な働き方を叶える方法」についてはこちらのnoteで詳しく解説していますので、是非読んでみてくださいね。
4.考え方を変えて、夫との不仲から脱出できたこと
自分を大切にする習慣を作り、自分自身を大切にできるようになると、夫や子供といった他の人にも優しくなれます。
自分が自由に生きられるようになると、他の人の自由も尊重できるようになります。
「自分のことと他人(他の人)のことは、混同せずに分けて考える」「人をコントロールしようとしない」「勝手に期待しない」この3つを心がけると、気持ちがスッキリし、ちょうど良い距離で付き合えるようになりました。
今でも時々「イラッ」とすることはありますが、私を自由にさせてくれている夫には感謝しています。
5.心地よく生きるための良い習慣を作ったこと
約1年前にTwitterで今のアカウントを作り、毎朝5時に起き、発信者としての活動を始めました。朝活でのインプット、思考の整理、アウトプットが習慣になってきました。
運用することで常に自分と向き合い、「今日の調子どう?」と会話する習慣も付いています。
Twitterでは、メンタル、食事、運動、美容、お金、健康など、様々な分野で発信活動をしている仲間がいます。
流れてくるツイートを読んで、ただ単に「すごいなぁ」「やってみよう」と思うだけでなく、いいなと思ったら「すぐやる」習慣を身につけたことで、気持ちも身体も整い、いい状態が持続できています。
Twitterを見るだけや愚痴のはけ口として使うのではなく、前向きな発信活動をオススメします。
大切な最後のメッセージ
最後まで読んでくださり、本当にありがとうございました。
私からのお願いですが、
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③本noteの感想を引用RT
この3点をして頂けると泣いて喜びます。
頂いた感想には、全てお返事させて頂きたいので、@haru_2111でメンションをつけてもらえると嬉しいです。
5つのポイントについて「もっとここ知りたい」などご要望があれば、TwitterのDMで感想を送って頂けると励みになります。
もっともご要望が多かったポイントについて、次のnoteで詳しく解説させて頂く予定です。
本当にありがとうございました。
読んでくださった全ての方にとって、前向きな一歩となりますように。
はる