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「優しい」を考える

バス席決めの残酷さ

社会科見学。
みんなが楽しみにしているのは、目的地のゴミ処理場ではなく、そこに行くまでの移動時間だ。

ある日、先生が「バス席を好きなように決めていいよ」と言ったから、クラスが盛り上がっていた。

各々が好きな人とペアを組み、バス席が段々決まっていった。私は3人グループで仲が良かったから、2人と1人に分かれなければいけなかった。
そして、それを中々決めれなかったから、最後の時間まで残ってしまっていた。

ほとんどのクラスメイトはバス席で隣になる人が決まっていて、残されたのは自分たち3人と1人の男の子だった。その男の子はいわゆる問題児で、周りから避けられている生徒だった。

先生が中々バス席を決められない自分たちを見て、ジャンケンで決めようと切り出した。つまり、3人の中で負けた人がその男の子とペアになる。

そして、3人でジャンケンをしようという流れになった時、私は急にその状況を客観視し始めた。

(負けた人が、この男の子の隣の席になる、、、。男の子の立場になったらどうだろう。)

私はジャンケンで決めることの残酷さに気づき、自らその男の子の隣の席に座ることを希望した。先生や友達は驚いていたが、自分はそれで悔いは無かった。この男の子が嫌な思いをしないで済むのなら、私は別に良いという考え方だったからだ。

優しいんだね。

私はよく、周りから「優しい性格の持ち主だね。」と言われる。ただ、優しくしようと思って行動していなかった為、その言葉には違和感があった。

最近、就職活動の関係で自己分析をすることがある。自分の優しいってなんだろう。

私は、「優しい」の中に3つの要素があると思う。

優しい = 課題発見力 + 自分ごと化 + 行動力

これらの3つが1つでも欠けると、優しさは成立しない。自分が優しいと言われる時はいつでもこの3つの要素があったと思う。

優しさの弱点

優しさには強みもありつつ、弱点もあると思う。それは、本来の自分の意見を蔑ろにしてしまう場面がある事だ。

特にこのバス席決めの件について、私の母は「自分の希望や要望も大切にして欲しい」と言っていた。

最後に

きっと自分の他にも、自分の希望する事を犠牲にして他人のためにと考えて行動する人がいると思う。これまで、それは私の強みだと思いつつ、最近は希望を通す力も大切なのではないかと思うようになってきた。きっと譲れない軸を持つことが大切なんだと思う。その自分軸と優しさのバランスを保って生きたいと思う。

(この投稿でnoteの3日坊主は逃れられた。3日連続投稿イェイ!)

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