拝啓、K先生
私はK先生のことをよく覚えている。
K先生は小学校3年と5年の時の担任である。
正確な年齢は知らないが、おそらくあの当時で30代半ばくらいだった気がする。
K先生は長身で筋肉質、頭は短い角刈りで、浅黒くイカツイ顔立ちをしていた。中学ならいかにも体育教師または生活指導といった風貌で、ジャージがよく似合い、一言で言えばスマートなゴリラといったところか。
記憶の中の彼の顔は大分ぼやけてしまったが、その鋭い眼光、煙草のにおい、腹に響く声は今でも覚えている。
K先生は、その威圧的な見た目からは想像もできないほど陽気で破天荒でユーモアあふれる人だった。
自分のことを学校でのお父さんだと思ってほしい、とか言っていたな。
まず先生の授業で朝の1時限めが定刻通りに始まったことは、たぶん一度もない。
授業が始まる前に朝の会というのがあったのだが、そこで毎日歌を歌っていた。校歌斉唱的なやつじゃなく、ありとあらゆる曲をがっつり歌っていた。
先生は自前のクラシックギターを持ち歩いていて、自身もギターを弾きながら歌う。歌うこと、演奏することが大好きなのである。
おお牧場はみどり、草の海風が吹くよ
丘を超えいこうよ、口笛吹きつつ
あの素晴らしい愛をもう一度
今でもメロディーを思い出す。
新書くらいのサイズの子供向けの歌の本があって、たいていはその中からだったけど、本にない歌も歌った。
それらはきっと先生が好きで思い入れのある歌たちだ。
山賊のうたとか、イギリスのボーイスカウトの歌とか、どこの国の誰が作ったかもわからない、今ではタイトルも思い出せないようなたくさんの歌のメロディーが、意味もよくわからず音として発し続けたそれらの歌詞が、今も私の胸に染み込んでいる。
朝の会では歌の他に、一人か二人ほどその日のスピーチ当番みたいなものが決まっていて、話したいことを自由に発表する時間があった。
子どもだからそう大したことは喋れない。先週の休みに何をして過ごしたとか、最近あったこととか、そういうのを二言三言話すだけだ。
K先生はこれを聞くのが好きだったようで、一人一人嬉しそうに笑顔で大きなリアクションをとった。そして自分の経験談を交えた感想を話す。冗談やユーモアで 話を膨らませる。
私はそれをいつまででも聴いていられた。というか実際いつまでも終わらないのだ。
気がつくと1時限めは終了15分前くらいになっている。朝の会がたぶん15分くらい、あの頃授業はひと枠45分くらいだったか。
つまり1時限めに毎回30分くらい先生の漫談のような体験談を聞いていたことになる。
先生、話したい事がいっぱいあったんですね。
全部の都道府県を旅行したこととか、
ハワイにいったこととか、
社会人になってからの何かの寄り合いで参加した合宿が地獄だった話とか、
しばしばカミソリで誤って自分の顎周りをスッパリ切っちゃう話とか、
スキー場で知らない女の人にカッコつけてその後盛大にすっ転んだ話とか、
昔は力士並みの大食漢で太りすぎて椎間板をやられて動けなくなった話とか、
先生の幼い息子の発音が舌っ足らずで大根おろしを大根殺しって言っちゃう話とか、
今思うと大分しょうもなかったり、面白くするためにちょっと話を盛ってるんじゃないのと思うような話もたくさんあったけど、小学生だった私にはそんなこと判りようもないから、私はぜんぶ真に受けて笑っていました。
先生が教室の壇上で習ってるエアロビの激しい動きを披露したのとか、あれはいったい何の経緯でそうなったんでしょうか。
ワンツーワンツーと叫びながら足を振り上げていたことなど、先生はとうに忘れてしまっていることでしょう。
それで1時限めも終わりが近づく頃にようやく教科書を開くことになるのだが、そこからも先生の授業脱線はしばしば続く。
そんなわけで私は1時限目を長いと感じたことがなかった。
今こういうことをやっていたら保護者の誰かしらが苦情でも入れそうなものだが、二学期になっても三学期になっても授業脱線が止むことはなかったように思う。
ある時には、授業中に教室に一匹のトンボが飛んできて、騒ぎ立てる生徒たちにK先生はすかさず言い放った。
「全員、鉛筆を持って一分間挙手!鉛筆にトンボがとまった人は今日の宿題ナシ!」
あんなにもクラスが一丸となった一分間はない。
ちなみにK先生は学期末になると “ テスト祭り “と称して学期中の振り返りのテストを毎時間やらせることで、無理矢理その帳尻を合わせていた。
先生にとってあまり触れてほしくない事実だろうが、私はそういうことも忘れていない。
ともかくあの頃、私たちのクラスでは、毎朝開放的な時間が長く続いたのだった。
先生は時々、授業中でも私たちを外に連れ出した。
授業のカリキュラムの一環というわけではない。
たぶんその日天気がいいからとか、見せたいものがあるとか、先生の気分でわりとそういうことがあった気がする。
K先生はでっかいジープに乗っていた。授業中に生徒を駐車場にある自分の車まで連れて行って、エンジンルームの中がどうなっているのか見せてくれたことがある。
残念ながら私は先生の説明がまったく理解できなかったが、あれは何でそういう流れになったんだろうか。
それまでに学校の敷地内をクラスみんなで散歩してたこと、私がポケットに手を入れて歩くクセがあり繰り返し何度も「〇〇、ポケットに手ぇ入れるな」と怒られたことは覚えている。
そうそう、いちばん最後に怒られたときは、私のポケットに手は入っていなかった。
「〇〇!ポケットに手ぇ入れるなと何回言わせるんや!!」
先生、最後のやつは私入れてません。誓って入れてません。あれは先生の見間違えです。
先生は見た目からは想像できないユーモアと茶目っ気の持ち主なのだがそれはそれ、やっぱり見た目どおり怒ると恐ろしかった。
私は多動で注意力散漫で人の話を最後まで聞けないいわゆるアレであったので、それはもう怒られまくっていた気がする。
もっとも怒られた内容まであまり覚えていないのは、お叱りすらも集中して聞けなかったからか、恐怖で記憶が飛んでしまっているのか。
ただあの恐ろしい空気だけは覚えている。
K先生に怒られると、目を伏せる私の視界がぐにゃーーっとなってくる。
何もされていなくても、あの恐ろしい圧力と腹に響く太く低い声に、私は見えない何かに全身を乗っ取られグニャグニャにされるような気がした。
あの雰囲気に呑み込まれるともうなす術がないのである。
K先生は良いこととダメなことの区別をはっきりつける人だった。今思えばそれはかなり彼の好き嫌いも混じっていた気はするが、駄目なものは駄目、許せないものは許せないのである。
教員らしいといえば教員らしいのだが。
とにかく不真面目なもの、不謹慎なもの、誠実じゃないもの、情のこもっていないもの、子どもを堕落させる(とされる)もの、悪影響を与える(とされる)もの、いわゆる “ ふざけたもの ” が大嫌いだ。
尊敬する著名人とタレントが対談するバラエティー番組で、せっかく著名人が良いこと言ってるのにタレントがそれを茶化すのにブチギレてTV消したとか、
押しの強い陽気な訪問販売の営業マンにブチギレて撃退したことなどを、吐き捨てるように話していた。
また下品な子供向けアニメもすこぶる嫌っていた。
クレヨンしんちゃんが給食時間に流されたときなどは、奇声のような悪態を吐き捨てて教室から出ていってしまった。子どもは笑っていたけど。
本当に血の気の多い先生である。
(ただ1つ言っておくと、当時のクレヨンしんちゃんは作品の中でも最初期のものであり、現在のそれとは似ても似つかぬ内容であった。原初のしんちゃんは純然たる容赦なきクソガキであり、あの時代の品行方正な大人が目の敵にするのもまあ頷ける内容であった。私は好きだが)
そうそう、あれはたしか給食係の数人が遊びに夢中だったかなんだかで給食時間前にその仕事を放ったらかしてたときだったか。
その数人をクラス皆の前に立たせて大声で怒っていた。
その上「皆に見てもらえ、その恥ずかしい顔を!」とか言って晒し者に追い打ちをかけるようなことをしていた。
詳細な原因は忘れたがそこまですることないじゃないかと思う。せっかくの給食が不味くなってしまう。明らかにやりすぎである。
ただその時だったか別のときだったか、こんなことも言っていた。
「私達は同僚と飲み会もするが、どんなに深酒したりハメを外しても、そうした人ほど翌日は元気よくシャキッと職場にでてくるものだという不文律がある」
「君等は遅刻しても宿題を忘れても怒られるだけで済むが、社会人になったらそれでは済まない。いちばん大事なものを失うからだ。それは “ 信用 ” だ。信用は一度失ったらもう取り戻せないんだ」
…先生。正論です。異論はありません。ただ小学生を正論でタコ殴りにするのはやめて下さい。
かのようにK先生は不届きな行為にはとにかく容赦がないのである。
あの当時、うちの小学校では子どもがゲーセンに行くことは全面的に禁止されていた。
さりとて子どもである。当然のようにそれを破る者が現れ、運悪く誰かに目撃され、学校に報告がいって、当然K先生の大落雷が待ち受けている。
うちのクラスの2〜3人ほどがゲーセンに行っていたことが発覚したとき、あの時以上にクラス全体で大目玉を食らったことはない。
…というか何でクラス全体だったんだ?
どれほど重い罪なのかクラス全体に知らしめるためか。いやもしかしたら、普段から素行の悪い不届者をこの機会に晒し者にして、絞りに絞って叩きのめしたかったのかもしれない。
あれは午後の授業時間、5時限目だったか、6時限目だったか、その両方の時間か。
信じがたいほど長く激しい怒号と叱責が教室に降り注いだ。当の罪人はもちろん、無関係な私達も1ミリも動けないくらい教室の空気は張り詰め、私達はただただ体を硬直させ縮こまるしかなかった。
いったい、子どもがゲームセンターに行くということはいかほどの罪なのか?
今となっても計りかねることである。
あれほど怒っていたというのは、私が覚えてないだけで何か彼らに別の罪状もあったのかもしれない。
親のお金を盗んで行ったとか?
別な子どもからお金を巻き上げたとか?
店内で何か迷惑行為をしたとか?
当事者じゃないのでそこまでは解らない。
ただあの時K先生が言っていたことで覚えているのは、
「お金を稼ぐっていうのは大変なことなんだ。まだ社会で働いたことがない君らにはそれが解らない。君らが軽い気持ちで使った分のお金を稼ぐのに君たちの親がどれほど大変な思いをしていると思う」といった言葉だ。
ここからおおよそ先生が言いたかったことの全容が推察できるように思う。
何となくクラス全体の問題にした理由もわかるような気がする。
おそらく先生の怒りの核心部分は、「何の価値もない俗悪な遊び(と先生は思っている)のために、親が汗水垂らして稼いだ血銭をドブに捨てるという行為の愚かしさが我慢ならない」といったところではないか。
もちろん、歯止めが効かなくなってお金欲しさに悪事を覚える可能性とか、ゲーセンが不良の温床になっておりさらなるトラブルに巻き込まれる危険性があるとか、そういった理由もあるんだろうが、
どうも規則を破ったからとか、危ない橋を渡ったからといった理由よりも、 “ 先生の信念に著しく反することをしでかした ” ことへの怒りがそこにはあったように思える。
でも先生やりすぎ。子どもがゲーセンに行ったことで1時間以上も苛烈な叱責を加えるのはどう考えてもやりすぎ。
あと先生は体罰も行う。わりと日常的に行う。
オイオイこの上体罰かよ、最低だなと読んでて思う人もいるかもしれない。
それも分かる。
私はK先生を聖職者として書くつもりはない。昔はこれが普通だったんだという話でもない。ただ等身大の人間として、過不足なく見たままを書き残したいと思っている。
あの当時、体罰は珍しいことではなかった。
K先生は殴る蹴るなどはしなかった。平手打ちもなかった。ただ手の甲とほっぺたを指でぎゅむーっとつねられた。あれは痛かった。
そしてそのお仕置きにはそれぞれ
“ 富士山 ” (つねって引っ張った手の甲部分が富士山に見えるから)
“ カレーパンマン ” (頬を横に引っ張るから)という不名誉な名前がつけられていて、
そこも含めてまあ…悪く取ろうと思えばいくらでも悪くとれる仕打ちではある。
ただ今にして思えばそういう婉曲?な言い回しや体罰の程度、女子には行わない所など(もっともそんな素行の悪い女子はいなかった)色々想像するに、
K先生は体罰を行うにも相手は小学生と、それなりに分別を持ってやっていたように思う。
体罰に分別というのも妙な話だが。富士山の刑だのカレーパンマンの刑だのというのも、一応先生なりのマイルドなお仕置きの表現だったのかもしれない。
これは当時先生のもとで育った私の主観なので、客観的に見て歪められた価値観なのかもしれない。
ただあの場で総合的に先生を見てこなかった人間が断じていいものでもない気がする。
私は色々と手のかかる問題児でよく叱られはしたが、K先生は私を認めてくれていた。
それは私への接しかたで子供ながらに感じることができた。
私の小さな功績をとても喜んでくれたし、私の頑張りを労ってくれた。
遠足のとき新しい遊びを考えた私を創造的だと褒めてくれたし、学年が変わって担任じゃなくなっても私が縄跳びを頑張っていることを称賛してくれた。
私は自分が肯定されていると感じていた。
一度、算数のテストでクラスで私だけが100点だったことがあった。私は嬉しくていつまでもニヤけが止まらなかった。先生も嬉しそうにそれを何度もイジってきた。
算数に関してはあの時がピークである。算数が数学に変わってからは、私の成績は転落の一途を辿るのだから。
そうそう、転落で思い出したが、ある時K先生は授業中に私たちを屋上に連れて行ったことがある。
そこで先生は、フェンスを乗り越えて屋上の縁に立つと、希望する子どもを1人ずつフェンスを超えて縁に立たせ、(後ろからしっかり抱え込む形で)縁から身を乗り出して下の地面を覗かせる、という謎のイベントを行った。
あれは本当に何のためにやったんだろう。転落の危険性とか恐怖心を学ばせるためだろうか。いやもうただただスリルを味あわせるためかもしれない。
私は高いところが大好きだったし先生が抱えてくれる安心感があったのでとても楽しかったが、これも時代が違えば全国ニュースになっていることだろう。
あの頃は本当に良くも悪くも教師にかなりの裁量が委ねられていた時代だった。
K先生と過ごした2年間で、忘れられない思い出がある。
1つは、クラスメートの母親が自死した時。
そのクラスメートとはあまり接点がなく、ふだん喋ることもなかったのもあり、当時それがどれほど衝撃的なことなのか、私は実感を伴って理解することができなかった。
学校やその地区はきっと大変な騒ぎになっていたと思う。ある日の朝礼でそのことが伝えられた。
K先生は沈痛な面持ちで、重苦しい口調でその事実を報告した。
そして「今はこれ以上のことは話せない。でも先生はみんなに、人が命を絶つということがどういうことなのか、今日の帰りの会の時にきちんと話します。必ず話します」とはっきり約束した。
私は先生の口から何が出てくるのか、とても気がかりだった。だけどその放課後、先生からその話はなかった。その次の日も、また次の日も何もなかった。何もないまま、その理由も聞けないままに、あの出来事は風化してしまった。
あのとき先生はどんなことを言いたかったのか。どうしてそれを言わなかったのか。
これは推測だが、学校側から差し止められたのだと思う。理由は、何となく想像はつく。言ってほしくない人達がいる。たとえ生徒のためでも悪意がなくても、知られるだけで傷つく人がいる、そういうことだろうと思う。
何より、当のクラスメートのためなんだろう。あの時はどうしてK先生は約束を破ったんだろうとずっと思っていたけど、今は仕方がなかったのだと思う。
それでも私は、 “ 人が命を絶つということはどういうことなのか ” 先生の口から聞きたかった。先生も約束を破ったことを不本意に感じていたかもしれない。
クラス皆に言えないのなら、一人でも聞きにいけばよかった。どうして話してくれないのか、その理由だけでも問いただせばよかった。あの時のK先生を責める気持ちはない。ただ何もしなかった自分の行動力のなさを責めている。
もう1つは、私が5年生の一時期クラスで孤立していた時。私が屋上に遊びに行ったとき(この頃昼休みにはクラスの大半が屋上で遊んでいた)誰も遊ぶ相手がいなく一人ぼっちだった。
クラスメートのOが後ろから思い切り私を蹴りつけたのがどうしても許せなかったので、それを下校前の終わりの会で報告した事があった。K先生はものすごく強くOを叱責した。それだけでなく、その時屋上にいたクラスメート全員を大声で叱責した。
「〇〇は孤立してた。皆わかってたはずだ。でも〇〇は屋上に行った。勇気を出して行ったんだ。どうして誰も声をかけてやらなかったんだ」
私は、泣くのをこらえた。恥ずかしかったからだ。本当に、今振り返っても、これまで生きてきて一番必死で泣くのを堪えた。
目を見開いて、机の一点を凝視しながら、顔を強張らせて、唇を固く引き結んで、喉ぜんたいを引き絞るようにして、先生が怒っている間、ものすごい力で、こみ上げてくる嗚咽を抑え込み続けた。
悔しさも苦しさも嬉しさも全部飲み込んだ。ぜんぶ首から下に押し込んだ。
あの日、こみ上げる感情を必死で押し殺したことを忘れない。一番泣きたかったときにそれを抑え込んだことは果たしてよかったのか、わからない。
私は堪えきったと思ったけど、K先生にはきっと見抜かれていたに違いない。
私はK先生にとても可愛がってもらったと思う。これは後年になって親づてに聞いた話からも窺える。私は大分ひいきにしてもらったと言ってもいい。でもクラス全員にとってそうだったかと振り返ると、恐らく違う。
K先生は熱血漢ではあるが、聖職者ではない。血の通った1人の人間として、全ての生徒を公正平等に扱うことはできなかったと思う。
それは露骨な差別をしていたとか、教師として最低限の職務にもとるようなことをしていたということではない。
K先生も人間である以上は子どもとの相性、もっと言えば好き嫌いがあり、それは誰であってもそうであるように、完全に隠しきれるものではなかったということだ。
あの頃の私には三十代半ばのK先生がすごく完成された大人に見えたものだった。
先生というのは全ての面でお手本であり、未熟さや子供っぽさなどは微塵も残っていないものだと思っていた。
今私は当時の先生の年齢を超えてしまったわけだが、全くそんなことはなかったのだと感じる。
K先生は自身の過去のことをたくさん話してくれた。それらを踏まえて先生の人物像を考えると、先生にも人格的な偏りは多分にあり、私に接するように他の問題児に接することは困難であったと思う。
K先生はどちらかと言えば貧しい子供時代を送ったそうだ。父親の話はあまり聞いたことがない。
母親が学校の給食室で働いていたというから、時代を考えると片親だったのかもしれない。
学校の給食が不味いのは母親のせいだと馬鹿にされ、虐められていたと言っていた。
想像だが、このことはK先生にとって強い原体験となったのでないだろうか。
先生は素行の悪さとか、不真面目、不誠実、しいては他人を虐めるような不埒な根性に対して、根強い怒りを持っていたように感じる。
そしてそういう行いをする人間、腕っぷしの強さで自分より弱いものを圧迫するような人間、いわゆる悪ガキとかガキ大将みたいな粗暴で素行のよくない子どもを叱る時の態度は、私に対するそれとは違って見えた。
私は問題児ではあったが、いわゆるガキ大将のようなタイプとは真逆だった。落ち着きこそないが神経が細く気も弱く、彼らのように怒られても説教が響かないといったふてぶてしさは全くなかった。
私は従順で不器用で弱い人間だったのだ。そんな私の性質は先生には一定のシンパシーと共に受け入れやすいものだったのではないかと思う。
一方そうでない、私とは真逆のタイプの問題児には、先生の怒り方も辛辣だったように見えた。
クラスメートの何人かに対してはそんな感じだった。そんな彼らはK先生をどう思っていただろうか。
今でも覚えているのが、5年生の三学期の終業式のことである。先生は翌年度から別の小学校に移動が決まっていて、あの日はあの学校での先生との最後の1日だった。
私にとってはとても感慨深い一日だった。
K先生は私達に最後のはなむけとして、小椋佳の “ さらば青春 ”を弾き語りで歌ってくれた。
私は強く心を動かされた。
あれは歌の後だったか、いよいよ最後の別れというとき、いつも頻繁に叱られている問題児のMが何か小さな粗相をやらかした。たぶん最後の先生の話をちゃんと聞いていなかったとかそういうやつだ。
K先生はすかさずMを叱りつけた。そして「お前は最後の最後まで✕✕な奴だな!」と何かとても否定的な言葉を投げつけたのである。
それはあくまで全体としては小さな一幕に過ぎないものだったし、そのとき私はMが嫌いだったからざまあないなという気持ちしかわかなかった。
だがMにとっては、これがK先生との最後の思い出である。私でなくたって見ていればわかる。
MがK先生に良い感情など持っているはずがない。
尊敬や感謝の気持ちなんて芽生えるはずがない。
もしあのとき、同じ粗相を私がしていても、K先生は私にそんな言葉は投げつけなかったと思う。
今なら分かる。K先生はMが好きではなかった。可愛いと思えるタイプの問題児ではなかった。
大事な最後の別れのときに何か自分の感情を逆なでするようなことをされて、最後だったこともあったのか、思わず本音が出てしまった。
教師としては不適切だろうがK先生も人間だ、完璧じゃない。だから思わず言ってしまった。後で後悔したかもしれない。たぶん後悔したと思う。だがもう遅い。Mはきっと許さない。Mの中では総じてムカつく先生だったという思い出が残る。いやそれすらも忘れてしまったかもしれない。
きっとMにとってK先生の記憶なんて残しておく価値はないだろうから。
あの日聴いたさらば青春と、最後の心無い言葉。
どっちもK先生の思い出だ。
あれから30年経った。
私はどうしてこんなにもK先生のことを覚えているのだろう。
K先生は今どうしているだろう。かなり高齢だろうし、たぶんもう教職を退いているだろう。
私のことはたぶん覚えていると思う。でも私の担任だったときのことはもう覚えていないと思う。
私はずっとK先生のことを忘れなかった。もしK先生と再会できたら、この数え切れない思い出をぜんぶ先生にお返ししたいと思っていた。
先生がそれを聞いて喜ぶかどうかは判らない。
先生にとって私は何百人と見てきた子どもの1人に過ぎない。
けど私は、先生のこと忘れていない。
K先生。私は先生の生徒でした。
先生のことよく覚えています。良いところも、そうでないところも、何故かはわからないけど、こんなに、こんなにも、克明に覚えているんです。
先生のことを覚えている生徒がここにいるんです。先生が忘れても、私は先生をこの先も覚えています。覚えていますから。
それだけを伝えたいと思っている。
だがおそらくK先生と再会することは、もうない。