【あなたの物差しと私の物差しは同じじゃないのよ、だってあなたのものはあなたのもの、私のものは私のものだもの。あなたはあなた、私は私。】

それを嘆いたとて、です。

生まれてかれこれ40数年が過ぎたわけですが、【価値観を強要しない】はその40数年でもかなり前半に指導されたと記憶しています。

とある友人と話していると、その記憶すら、自信がなくなってくるというか、あぁそうか、これも私の価値観なのだから人に強要しちゃだめだよね、となって訳のわからんことになってしまう。

まぁ彼がいうには相手にも同じ熱量で思いを返してほしい、俺に失礼やろ、と。

本人は否定してますが、見返りを求めるタイプです。あくまでも本人は否定しています。

例えば。

俺が気にかけてやってんのにあいつは俺のことを気にかけてない、失礼や、常識がない、という具合。

それをもうかれこれ10数年聞いてる気がします。

彼のいう『あいつ』の対象はその時々で変わるのですが、内容は変わりません。

そしてもう付き合いせんことにした、もうあいつが困ってても助けない、と言うところまでがセット。

そして毎回私も言うことは一緒です。

『他人の中の自分への評価を気にすることほどしんどいことはないよ?気にするのやめたら?』

毎回同じことをいうところまでを含めると私のこの返事もセットということになりますな。

まぁその後のくだりも大体同じなので、無限ループです。

いつもその愚痴を聞くと、しんどいしんどい腹立つって愚痴るくらいなら、そのループから抜け出したくならないのかなって不思議に思う。

10数年続くと、もはやそれが言いたいだけなのかな、とも思う。

誰がどんな形でどんな風に自分のことを思ってようとそれはその人が思うことであって、私が推測することじゃないし、推し量れなくて当たり前だと思う、だって別個体の生き物なんだもの。

そしてそれがおもしろいところなんじゃないのかしら。全員自分と同じって何のために別個体として生まれてきたの?じゃあ1個でいいじゃん、てなるし、バラバラやからこそ私も生きてていいのねー意味あるじゃーん、てなるけどなぁ。

私困ってる友人を助けたことあったかな、とかまで考えちゃうんですよね、彼と話してると。

多少はあるんです、もちろん。
服貸してくれとか、話聞いてくれとか。この日空いてるかとか。おっけー、いいよーゆーて、ありがとう!助かるわーとか。
あるんです、それなりに。40数年生きてるから。

でもそれに対して、ありがとうしか言われへんかったからとか、こんだけしてやったのにとか思ったことないんですよね、そもそも無理して助けたことないから。出来ることしかしない。

じゃあ彼はいつも無理してるのかしら、無理して気にかけてるのかしら。
じゃあ無理しなくていいと思う、無理せずに自分にできる範囲だけでいいんじゃないかしら。

同じ熱量を持って同じだけ返して来いというけれど、それはそもそも難しい話だと思うんです。
だって【同じ】て個人の持つものをどうやって比べるの?

人は人それぞれだもの。

彼『いいなって思う曲があったら人に聞いてほしいからCD貸したりするやろ?』

私『うん、貸す』

彼『そいつがいつまでもそのCDきかんと連絡もしてこんかったら腹立つやろ?』

私『いや、そんな人にはそもそも貸さないよ笑』

彼『俺はみんなに聞いてほしいから貸すねん』

私『そーなんやぁ、私聞いてほしい人限られてるかも、聞いてもらってその曲についてその人と話したいだけやから』

彼『じゃあそれでもいいわ、じゃあそいつがそのCD返してくるときになんの感想も言わずに返してきたら腹立つやろ?』

私『腹たちはせんけど、どーやった?どーやった?て聞くと思う』

彼『ほんであんまりやった〜て言われたら腹立つやろ?』

私『いや腹立ちはせんよ、あら!残念!どんなん好きなん?なんかいいのんあったら貸して〜てなる』

彼『俺ならへん、もう絶対貸さへん、てなる。せっかくいい曲貸してやったのになかなか聴かんと連絡もしてこーへんなんて常識なさすぎるやろ。もし向こうがこれ聞いてみてってCD持ってきても俺もおんなじこと仕返したんねん。腹立つから。』

驚愕なんですよ。
聞いてほしいものを聞いてくれたのに?
時間は有限だよ?
だって好みあるやん?
貸してって言われたわけじゃないやん?

つかみんなに聞いてほしいってゆー感情自体がないかも。
私が欠落してるのか?

これは序の口です、書きやすかったから書いただけで、彼の周りではいたるところでこういう事象が起こるんです。

やられたらやり返す、てまぁ最近またよく聞くフレーズではありますが、この場合なんか違う笑

自分が嫌やったことは人にしたらあかん、てなんか聞いたことある気がすんねんけどそれを今言うと価値観の押しつけになるのか?とか笑

彼と話してると自分自身に問う場面によくぶつかります。

40数年生きてなお、自分を見つめ直して改めようという気持ちになる、という意味では、私には彼の無限ループ愚痴は成長の肥やしにはなっているわけです。いつもありがとう。

まだまだ自分のためにしか生きれていないという点では反省ですな、彼のためになにか出来ることがあるかと言えば無いと思う、他人のためになんざぁおこがましいよ未熟者だしそんな力ございません。

私は私のために毎日を暮らしてる。

50年経って、60年経って、彼はどう変わっていくのか、もしかしたら変わらないのか、そこには非常に興味があります。

もし30年経っても変わらずにしんどいしんどい俺は傷ついたってゆーてたらそれはそれですごいと思う、だってすでに傷だらけやのにまだ頑張れるんやからある意味めっちゃタフでしょ。

そっちのが稀有な気がするなぁ。

そうやって色んな愚痴が聞けたり言えたりするのも、生きてるからこそと思えばですね。

そんな彼もまた、一人の人間なんだもの。

人って面白いねぇ。

多分、明日も連絡があるでしょう。
時間があれば受けよう、なかったらまた今度だ。

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