釜ヶ崎におけるジェントリフィケーションと強制立ち退きについての問題提起


現在、釜ヶ崎のあいりん総合センターの周辺で生活する野宿者や、かれらを支援するために設置された団結小屋に対し、強制立ち退きの危機が迫っています。この動きへの対抗として、筆者は、西成特区構想の有識者委員一同による文書への批判を執筆しました。執筆の目的は裁判の場にて活用できることですが、同時に、有識者委員の議論に批判的に応答することや、幅広い関心と議論を喚起することをめざしました。ここに、本意見書を公表します。ぜひご一読ください。(原口 剛)

<参考>
「あいりん総合センター閉鎖(建替)に伴う現況に関する私たちの見解:取組みの経緯や問題点の整理」(2019 年 6 月 3 日 西成特区構想有識者委員一同)https://www.city.osaka.lg.jp/nishinari/cmsfiles/contents/0000474/474880/07siryou4.pdf
『西成特区構想 まちづくりビジョン2008~2022有識者提言書』(2018年10月)https://www.city.osaka.lg.jp/nishinari/page/0000450779.html

「あいりん総合センター閉鎖(建替)に伴う現況に関する私たちの見解:取組みの経緯や問題点の整理」に対する批判

2020年9月3日
 原口 剛( 神戸大学人文学研究科准教授)

1.はじめに
 2020年4月、大阪府は、あいりん総合センター周辺で生活する野宿者や、かれらを支援するために設置された団結小屋等に対し、土地明け渡し請求の訴えを起こした。同年7月22日には、大阪地裁による仮処分命令が出され、センターの周辺に生活する野宿者には立ち退きの危機が迫っている。ホームレス支援の責任主体である大阪府が、野宿者を「債務者」として訴え土地の明け渡しを迫ることは、前代未聞の事態であり、国内外の法律に違反する人権侵害行為である。
 この事態は、2012年以降に進められた西成特区構想のなかで打ち出された方針に則り、あいりん総合センターが閉鎖されたことに伴い引き起こされた。本件の証拠として、2019年6月3日に西成特区構想有識者委員一同によって公表された「あいりん総合センター閉鎖(建替)に伴う現況に関する私たちの見解:取組みの経緯や問題点の整理」(以下、「有識者見解」)が採用されている(甲第14号証)。長く釜ヶ崎にかかわってきた地理学者や社会学者をはじめとする有識者にとって、自分たちの見解が暴力的な立ち退きを正当化する材料として流用される事態は、不本意であるに違いない。とはいえ、「有識者見解」が根本的な問題を抱えていたことも確かである。その見解は、立ち退きにかかわる原則的な観点が希薄である一方、いくつかの重大な論理の欠落や論旨の混乱を抱えている。そうした欠落ゆえに、立ち退きを正当化する文書として流用されてしまったのだと考えられる。本意見書は、この「有識者見解」に対して疑義や反論を提起することにより、当事者の意志に反する強制立ち退きが違法であることを明確化させるとともに、センター周辺に野宿することの正当性を論証することを目的とする。

2.前提となる認識についての疑義
 さて、具体的な論点の検証に入る前に、前提となる事柄を問わなくてはならない。「有識者見解」は、あいりん総合センター閉鎖の是非のほか、センター周辺で野宿することの是非をも論じている。野宿という行為に対し、そもそも有識者は、いかなる認識をもっているのだろうか。そう問わなければならないのは、ひとえに、次のような事実を見過ごすことができないからである。
 2015年11月まで大阪市特別顧問・西成特区構想担当を担った鈴木亘氏は、一連のまちづくり会議の回顧録をまとめた著書『経済学者 日本の最貧困地域に挑む』を、2016年10月に出版した。「あいりん改革 3年8ヵ月の全記録」という副題に記される通り、本書のなかで鈴木氏は、「西成特区構想」や「あいりん地域まちづくり会議」の展開過程を、包括的かつ詳細に記している。その情報量は、関連書籍のなかでも他を圧倒する。また、本書は一般書店などをつうじ流通したことから、その言説は大きな影響力を与えたものと考えられる。重大なのは、本書のなかに、明らかに人権を侵害する記述が多々みられることだ。たとえば鈴木氏は、「ホームレス」を「外部不経済」と関連づけたうえで、次のように断じる。

「たとえホームレスが好きで野宿生活をしていたとしても、直接的には関係のない第三者に迷惑がかかるのであれば、そのときには行政介入が行われるべきである。第三者に悪影響をおよぼす場合を「外部不経済」、よい影響を与える場合を「外部経済」という。/では実際に、ホームレスはどのような外部不経済をもたらすのだろうか。第1に、公園や道路などの公共空間を占拠することにより、第三者が使用できなくなる。第2に、結核などの感染症が蔓延し第三者に広がる。第3に、周辺環境が悪化し地価や賃貸料が下がる。第4に、路上生活にともなって健康悪化が進むと、最終的に重篤患者となり生活保護から高額の医療が支払われる。第5に、ホームレスをみると通行人が気の毒に思って不幸な気分になる(これも立派な外部不経済である)。したがって、これらの外部性を解消する範囲内で行政介入が正当化されうる。」(★1)

つまり、野宿者はその存在が視界に入るだけで不利益をもたらす、というわけである。曲がりなりにも研究者を名乗る立場から、これほど露骨な差別的発言が公にされた事例を、筆者はほかに知らない。釜ヶ崎や野宿者への関わりを多少なりとももつ研究者であれば、このような言説を支持する者は、誰もいないだろう。にもかかわらず、鈴木氏の論に対する有識者内部からの批判は、一度もなされてこなかった。他方で「有識者見解」は、次のようにも述べる。

「〔2019年〕4月以降、この状況〔注:あいりん総合センターの閉鎖とそれに対する阻止行動〕について各種メディアによる報道やSNSが発信されていますが、残念ながら事実と異なる情報も散見されます。これらの情報によってミスリードが生じては、この8年の歳月をかけて地域の人々が同じテーブルについて粘り強く積み重ねてきたまちづくりの取組みに深刻な影響を及ぼしかねません。」(「有識者見解」より)

「事実と異なる情報」の発信によるミスリードを問題にするならば、その批判は、上掲した鈴木氏による言説にこそ向けられるべきであろう。その言説は、数十年の歳月をかけて寄せ場・野宿の研究が粘り強く積み重ねてきた学術的知見を踏みにじるものである。なにより、野宿者差別を助長し、襲撃や強制立ち退きなどの深刻な影響を及ぼしかねないのだから。また、この言説がまちづくりのなかで中心的役割を担った人物により生み出されたことは、当のまちづくりに対する「ミスリード」を招かずにはいられない。このような言説に対する有識者からの見解こそ、まずは表明されるべきだろう。

3.強制立ち退きが法的に禁止されている事実への認識
 以上で述べたように、有識者の主張には、その根本の認識に対する疑念が拭い去れない状況にある。だがひとまず、有識者が野宿者の人権に関する原則を尊重する立場にたつと想定し、かつ、鈴木氏の言説に対してはいずれ公的見解が出されるであろうことを期待して、議論を先に進めたい。センター周辺で野宿する人びとに対し、「有識者見解」は以下のような基本姿勢を提示している。

「とくに、夜間にシャッターで閉じられた旧総合センター周辺で野宿をされていた方……(中略)……に対しては、なによりも“脱・野宿”の道が示される必要があります。基本的には、野宿しなくてよい社会を目指すことが重要であり、人間の尊厳を尊重する立場からも、路上や旧総合センターのコンクリート床に寝ざるをえない状況は、放置できない事態であると考えます。とはいえ「自分でできるうちは行政の世話になりたくない」、「生活保護を受けると付き合いがなくなり孤立する」という理由から路上での暮らしを選択する方がいます。私たちは、本人の意思を尊重することが大切であると同時に、行政機関や地域団体などが取り組む巡回相談による見守り、相談事の受け入れ,意向確認が重要であり、生活保護利用を希望される方にはそちらへの移行を速やかに行うことが大切だと考えています。」(「有識者見解」より)

この文章を解釈するうえで、次の事実を踏まえることが肝要である。すなわち、過去20年の野宿者に対する強制排除では、“脱・野宿”の支援策と引き換えに公共施設からの立ち退きを迫るケースが繰り返され、その状況は現在も続いている。むろんそれは違法なのであって、たとえば2002年に公布・施行された「ホームレスの自立の支援等に関する特別措置法」(以下、特措法)は、憲法学者の笹沼弘志氏が強調するように、当事者の自己決定の尊重を根本原理としている。ゆえに、「仮に本人の最善の利益の保護のためであったとしても、本人の意志に反して施設への入所などを強制することは原則として許されない」(★2)。このように、本人の意思に反する強制は法的に禁じられており、まして強制立ち退きは許されないのである。
 この点について「有識者見解」は、「路上での暮らしを選択する方」の「本人の意志を尊重することが大切」と記してはいる。しかしながら、それはあくまで付加的に示されているにすぎない。全体の論調をみるならば、「脱・野宿」の道を示す必要性や、野宿生活が「放置できない事態」であることの強調にいっそうのエネルギーが注がれていることは、明らかである。支援策の提供と排除がセットで進められてきた現状を踏まえるなら、そのような論調は、立ち退きの素材として流用される危険性に対し、あまりにも無防備である。野宿生活を選択する当事者の自己決定が尊重されるべきこと、強制立ち退きは法的に禁じられていることは、「脱・野宿」の支援策の提供に劣らぬ重要性をもつ基本原則として、再確認されるべきだろう。

4.「耐震上の危険」によりセンター閉鎖は正当化されうるか
 しかしながら「有識者見解」は、例外的事情が存していることを強調してもいる。すなわち、あいりん総合センターの耐震性の問題である。あいりん総合センターの仮移転とそれに伴う閉鎖の方針が決定された事情を、「有識者見解」は以下のように述べている。

「旧総合センターの耐震性については、2008年に国、府、市等によって建替・改修にむけた耐震調査が実施されており、その結果、旧総合センターの構造耐震指標であるIs値は、「(大地震時:震度6強~7程度の)地震の振動及び衝撃に対して倒壊又は崩壊する危険性が高い」とされる0.3未満を大きく下回る数値でした(北側棟 0.208,南側棟 0.214)。そこで国と府は,2015年に改めて労働施設のあり方を検討するために建替改修手法等に関する調査を実施し、旧総合センターに設置されている市営住宅、大阪社会医療センター(以下、医療センター)、労働施設……(中略)……に関わる各検討会議がはじまりました。/そして、旧総合センター移転の是非、移転場所の確保、補強技術(デザイン)と使い勝手、改修工事期間と安全性、利用者への影響、そして費用対効果等を検討した結果、「建替えやむなし」という方針が決まり、市営住宅(第1・第2)と医療センターは萩之茶屋小学校跡地に移転、職安と労働センターは、いったん南海電鉄高架下に仮移転したのち旧総合センター跡地に本移転することが、同センターの耐震性に疑義を唱えられた一団体を除く全委員によって承認されました。その後、知事・市長出席のもとで開催された2016年7月26日の第5回あいりん地域まちづくり会議にて建替えが正式に決定しています。」(「有識者見解」より)

また、2019年4月に閉鎖されたあいりん総合センターを開放すべきとする主張に対して、「有識者見解」は次のように述べる。

「現在、旧総合センターは耐震上危険な状態にあることから、一刻も早く移転する必要があり、準備が整い次第閉鎖して災害時への対応をとるべきであると考えています。なお、3月31日の旧総合センター閉鎖にあたり、これまで日常的に夜間閉鎖されていた旧総合センターを開放状態にし、野宿生活者等を夜間宿泊させることは、人命保護・人権尊重・環境衛生の観点からみて懸念される事態であったと考えます。」(「有識者見解」より)

つまり「有識者見解」の立論によれば、「耐震性の問題」という例外的事情により、センターの閉鎖・移転には格別の緊急性が存し、周辺での野宿生活の制限はやむを得ないとされる。しかし、この議論は、ある決定的な要因への認識を欠落させている。この点について、長年にわたり釜ヶ崎での野宿者支援に携わってきた生田武志氏が指摘する、次の見解は重要である。「あいりん総合センターは耐震に問題があるのかもしれない。しかし、単なる補強工事、あるいは労働施設として再建される予定なら大きな反対運動は起こらなかっただろう。問題となるのは、閉鎖されたあと、この場所が労働施設ではなく「駅前再開発」に使われる可能性があるからだ」(★3)。つまり、再開発により野宿しうる場所が奪われることへの不安は、当事者にとって、耐震性と同等か、あるいはそれ以上に大きいものと考えられる(★4)。しかし「有識者見解」は、この点を決定的に見落としてしまっている。
 このような危惧は、きわめて現実的なものとして捉えなければならない。そのことは、たとえば、東京の宮下公園の改造の事例をみれば明らかである。宮下公園の耐震性に問題があることは、2008年には明らかになっていた。にもかかかわらず、渋谷区は耐震補強の工事を行わなかった。ところが、渋谷区と三井不動産とのPPP(パブリックプライベートパートナーシップ)事業による「新宮下公園」の再整備事業が遂行されるにあたり、渋谷区は一転して耐震性の問題を訴えるようになった。つまり「耐震性の課題への対応」との文言が、再整備事業を正当化する名目として活用されたのである(★5)。この再整備事業の過程のなかで、公園を利用していた野宿者は強制的に追い出された。また、2020年7月に「MIYASHITA PARK」として開業した新宮下公園は、まったくの商業空間へと塗り替えられ、野宿者のアクセスが完全に拒絶される事態を帰結させた。
 あいりん総合センターでも、この事態が繰り返される危険は十分に考えられる。少なくとも、現時点では、この事態が繰り返されないことを確かなものとする保障はどこにもない。当事者や支援者がこの点について感じる不安や危惧は、まったく現実的なものであると言わなければならない。かような不安が拭い去られるのは、すべての地域住民が住みつづけることを保障するような本移転後の建物のありようが提示され、また、そのように提示されたビジョンが確実に実現されることが確約されたのちのことであろう(★6)。

5.「求人・求職活動の混乱」「衛生環境の悪化」により野宿生活者等のセンター周辺の土地利用を制限すべきとする主張の妥当性

さらに、「有識者見解」は、次のように述べる。

「4月24日以降、旧総合センターの閉鎖されたシャッター沿いの抗議拠点に置かれた荷物・車両等によって、現在、旧総合センター前にある仮移転先の労働施設における日雇労働者や求人事業所による早朝求人・求職活動等に混乱が生じています。とくに毎年日雇い求人が増加する7月までに就労のための環境を整えないと、日雇労働者の求職活動に重大な支障をきたすことが懸念されています。また、シャッター沿いに野宿の寝床等が多数固定化・密集することで、衛生環境が悪化して感染症が発生することも懸念されています〔野宿生活者が急増した1998年には地域に赤痢患者が多数発生(232人)〕。旧総合センター閉鎖に対して反対か賛成かの主張とは別の次元で、この事態に早急に対応すべき時期に来ています。」(「有識者見解」より)

ここでは、ふたつの論点が示されている。第一に、あいりん総合センター沿いに置かれた荷物が求人・求職活動の混乱の原因となっていること、第二に、野宿の寝床等が衛生環境の悪化をもたらすこと、である。しかしながら、いずれの論点も妥当とは言い難い。
 第一に、総合センターの敷地内にある荷物や車両の存在により、求人・求職活動等に混乱が生じる事態は、にわかには信じがたい。少なくとも、いかなる混乱が生じているのかが具体的に示されなければならない。ここでもふたたび、特措法の趣旨を踏まえる必要がある。特措法の定めによれば、「施設の適正な利用を確保するために必要な措置」をとるための要件のひとつは、「当該施設をホームレスが起居の場所とすることによりその適正な利用が妨げられている」ことである。ここでいう「適正な利用」の妨げとは「単に公園や道路等でホームレスの人々がテントを張ったり、小屋を建てたりして起居の場所としているだけではなく、実際に当該施設の利用の妨げとなっていなければならない」(★7)。すなわち、求人・求職活動の妨げになっているという「有識者見解」の主張は、ほかならぬ大阪府によって、その実態が具体的に証明されなければならない。
 第二に、衛生環境の悪化については、センターで占拠行動を行なう支援者が、まさに大阪府に対して求めたことである。しかしながら大阪府はこの要求に応じず、支援者は限られた力量のなかで衛生環境を改善する取り組みを行なわざるを得ない状況にある。ここで、次のことを強調すべきだろう。建物の維持管理をあえて放置し、居住環境を意図的に悪化させることは、旧来の住民を追い出すために採られるジェントリフィケーション戦略のひとつ――しかも、とくに悪質な戦略のひとつ――である(★8)。よって問題とすべきは、行政の意図的な不作為と放置であろう。また、「有識者見解」が述べるように、衛生環境の改善や感染症発生防止などは、「センター閉鎖に対して反対か賛成かの主張とは別の次元で」取り組まれるべき課題である。この課題の解決に向けて、協働してセンター周辺での生活支援の活動に取り組むことはできるだろうし、ともに行政に働きかけるなどの行動を起こすこともできるだろう。「有識者見解」はその責任をセンターでの野宿者支援活動に帰しているが、それは筋違いであり、地域内に分断を刻み込むことにしかならない。

6.「ボトムアップ型まちづくり」への評価の妥当性
 「有識者見解」は、2012年以降の西成特区構想が「各主体の立場を超えたボトムアップ型まちづくり」により進められてきたことを強調する。たしかに「ボトムアップ」や「草の根」は、従来型の硬直化した行政システムへのオルタナティブでありうる。だからといって、それさえ口にすればすべてが肯定されるようなマジックワードではない。ボトムアップの過程を経て立ち退きが引き起こされる可能性は十分ありうるし、差別や排除が「下から」生み出される可能性もある(冒頭で引用した鈴木氏の言説は、まさにそれを示している)。有識者の立場に求められるのは、まちづくりの可能性だけでなく、その限界をも見極める態度であろう。言い換えれば、「トップダウンか、ボトムアップか」という単純な評価を超えて、「ボトムアップ」の過程の内実をしっかりと見定める必要がある。ここで、「3.耐震上の危険によりセンター解体を正当化する論拠の妥当性」で引用した箇所の一部を、もういちど確認してみたい。

「そして、旧総合センター移転の是非、移転場所の確保、補強技術(デザイン)と使い勝手、改修工事期間と安全性、利用者への影響、そして費用対効果等を検討した結果、「建替えやむなし」という方針が決まり、市営住宅(第1・第2)と医療センターは萩之茶屋小学校跡地に移転、職安と労働センターは、いったん南海電鉄高架下に仮移転したのち旧総合センター跡地に本移転することが、同センターの耐震性に疑義を唱えられた一団体を除く全委員によって承認されました。その後、知事・市長出席のもとで開催された2016年7月26日の第5回あいりん地域まちづくり会議にて建替えが正式に決定しています。」(「有識者見解」より)

ここで述べられているように、あいりん総合センターの仮移転の方針は、「同センターの耐震性に疑義を唱えられた一団体を除く全委員によって承認」されたものであった。逆に言えば、少なくとも一団体からは疑義が唱えられていた。にもかかわらず、その方針は知事・市長出席の場において正式に決定されたのだという。だが、少数意見がなぜ却下されたのかを、「有識者見解」は明らかにしていない。はたしてその意思決定は、多数決を原則とするのだろうか。しかし、有識者の各委員は、それぞれの専門の立場からマイノリティの問題と深く向き合ってきた来歴をもつはずである。また、多数決を原則とし少数意見を却下するならば、それは旧来型の行政システムを反復したに過ぎないことにもなる。いずれにせよ、いかなる原則により意思決定がなされたのかという点は、不可解なままにされている。
 また、次のような疑念を持たざるを得ないことも事実である。「あいりん地域まちづくり会議」への参加意志の有無それ自体が、発言や意見の価値を左右する「踏み絵」とされたのではないだろうか。その疑念を生み出しているのは、ふたたび、鈴木亘氏による著書である。この著書のなかで鈴木氏は、あからさまな敵意をもって「活動家」を悪魔的存在として描き、いかにかれらを黙らせたかの「戦略」を長々と書きつづっている(★9)。もしこの記述が事実だとしたら、「まちづくり会議」の委員に名前を連ねることを拒否した人びと(★10)や、そこに直接は参加し得ない人びとの声は、不当に価値を貶められたものと考えられよう。

7.立ち退きや警察暴力の過小評価
 総じて言えることは、「有識者見解」による「西成特区構想」および「あいりん地域まちづくり会議」への評価では、肯定的側面が大きく強調される一方、否定的な側面や限界については著しく過小評価され、あるいは、見落とされていることである。この点は、とりわけジェントリフィケーションに対する評価に見て取れる。2018年10月に有識者が提言した『西成特区構想 まちづくりビジョン2008~2022有識者提言書』(以下、『有識者提言書』)の「6つの提言」のなかでは、「ジェントリフィケーションによる弊害が起きないよう外部力をしなやかに活かしたまちづくりを進める」と提言される。しかし問題は、なにがジェントリフィケーションと捉えられ、その弊害とは何を指し示すのかが、具体的に明示されないことである。一般にジェントリフィケーションの最大の弊害とは、立ち退きである。ただし、それは強制撤去のような直接的形態だけを指すのではない。たとえば、それまで低所得者が主流であった近隣に高所得者が流入するにしたがい、既存の住民にとって肩身が狭く居心地の悪いものとなり、ついには「自発的に」地域を立ち去るかもしれない。このような間接的なケースをも含め立ち退きを捉えるべきことは、いまや世界的なレベルで常識とされている。
 それでは、西成特区構想が始動されて以降、どのような事象が認められるべきだろうか。2015年、西成特区構想関連事業としていちはやく実施されたもののひとつは、監視カメラの大規模増設であった。ここでは、釜ヶ崎において監視カメラが有する歴史的な意味を踏まえる必要がある。釜ヶ崎では、早くも1960年代に街頭監視カメラが設置され、その目的は日雇労働者を監視下におくことだった(★11)。また、過去に設置された監視カメラ1台は、労働組合の事務所を監視するべく設置された。この事例に対しては、最高裁で「結社の自由や団結権に深刻な影響を与えるだけでなくプライバシーの利益をも侵害する」という判決が下され、撤去された経緯がある(★12)。したがって釜ヶ崎の労働者や野宿者にとって街頭監視カメラとは、「防犯」ではなく、「監視」の装置にほかならない。その大規模な増設は、「立ち退きの圧力」として感受されるだろう。事実、マシュー・マー氏によるインタビュー調査のなかでは、監視カメラに差別のまなざしを感受し、それに対する嫌悪感を表明する元日雇い労働者の語りが掲載されている。この語りに示されるように、監視カメラの増設は、労働者に対し「西成特区のコミュニティの正当なグループに属していないと見られていると感じ」させるものだった(★13)。
 また、西成特区構想が始動して以降、警察による不当弾圧が相次いでいる。労働者や支援者の抗議によりセンターのシャッター閉鎖が阻止されたのち、2019年4月24日にはなんの予告もなく国や大阪府の職員および警察隊・機動隊が300人以上の規模で動員され、暴力的な排除ののちにシャッターは閉鎖された。センター周辺には支援の拠点である団結小屋が再建されたが、付近に設置された監視カメラが向きを変えられ、団結小屋へとまっすぐに向けられた。この不当極まりない威圧に抗議すべく、抗議者は監視カメラのレンズにゴム手袋をかぶせた。このようなささやかな抗議に対し、警察は威力業務妨害の容疑をかぶせ、不当逮捕した。このほかの弾圧を含め、1年間のあいだに不当弾圧による逮捕者は延べ10名を数える。これらの行為は、警察暴力をあからさまにみせつけることで、立ち退くよう威圧する行為にほかならない。
 このように、立ち退きの圧力は、いまや釜ヶ崎の街を覆い尽くしているように思われる(★14)。そればかりでなく、直接的な立ち退きも、すでに起こされてしまった。2016年3月30日、花園公園に存在していた野宿者のテント小屋に対し行政代執行が遂行され、強制的に撤去されたのである。さらに、上述した2019年4月24日のあいりん総合センターからの立ち退きでは、行政代執行という手続きすら踏まえられず、事前通告なしに警察隊および機動隊が投入された。そしてついに、本件にみられるように、ホームレス対策の責任主体である大阪府が、野宿者を「債務者」として土地明け渡しを裁判所に訴えるという、前代未聞の排除が執り行われようとしている。このように、立ち退きの暴力は、ますます野蛮なものになりつつある。
 このような一連の事実を確認したうえで、あらためて『有識者提言書』に戻ろう。本書では、冒頭の「はじめに」のなかで、過去5年間の成果と課題が列挙されている。しかしこのなかで、監視カメラの増設や行政代執行といった事実には、いっさい言及されていない(★15)。ここでは、過去の教訓を振り返っておく必要があろう。学術研究の領域でも、立ち退きは、つねに過少評価されつづけてきた。たとえば1996年の新宿西口における野宿者の立ち退きに対し、都市社会学者の園部雅久氏は「支援団体と一部のホームレスの人々が反発し、機動隊との乱闘騒ぎになった」と表現した。このように「一部のホームレス」による「乱闘騒ぎ」と表現することにより、園部氏は立ち退きの事実と重大性を過小評価してしまった。翻って東京では「ワーキングクラスの追い出しという意味での不平等の拡大は見られなかった」と結論し、ジェントリフィケーションの研究可能性の視座をみずから狭めてしまったのである(★16)。この点に関し2018年の『有識者提言書』は、いっそう後退しているように思われる。それは、立ち退きを過小評価するだけでなく、行政代執行の事実に言及することすら怠っているのだから。このような見落としは、「ジェントリフィケーションによる弊害」を防ぐとの提言とは裏腹に、ジェントリフィケーションを正当化する帰結を招いてしまうだろう。

8.結語――強制立ち退きは法に違反する行為である
 最後に、あらためて特措法の趣旨を再確認しておきたい。本法の第11条には、次のようにある。「都市公園その他の公共の用に供する施設を管理する者は、当該施設をホームレスが起居することによりその適正な利用が妨げられているときは、ホームレスの自立の支援等に関する施設との連携を図りつつ、法令の規定に基づき、当該施設の適正な利用を確保するために必要な措置をとるものとする」。笹沼弘志氏の解説によれば、この文言は「施設管理者にホームレス排除の権限を付与した排除条項では決してなく、むしろ排除禁止条項と呼ぶべきものである」(★17)。というのも、「法令の規定に基づき」というときの「法令」には、国内人権法のみならず、国際人権法や規約委員会勧告等が含まれる。これらのことから、次の原則が帰結される。長い文章であるが、きわめて重要な意味をもつので、引用しておきたい。

「憲法によって保障されている居住の自由には、自己の居住の場所を一定箇所に制限され移動を許されないということだけでなく、居住することそのものの自由が前提とされている。何人であれ、この地表面上のどこかを起居の場所とせず存在を保つことは不可能である。したがって、地表面上の一定面積を居住のために占有することは不可譲の自然的権利である。この日本国の領域内でも、地表面上のどこかに居住する自由が許されるのである。逆にいえば、少なくとも国や地方公共団体が、ある人をどこにも居住することを許さないことは禁止されている。しかるに、日本の領土内の人の居住に適する場所はほとんど私人によって所有または占有されている。したがって、土地や家屋等を所有又は占有し、または当該場所を起居の場所とすることを権利者から許可されている者以外は、何人であれ利用可能な公共施設を起居の場所とせざるをえない。よって、土地や建物等を所有又は占有するか、権利者から居住を許されている者以外の者は、公共施設を居住の場所として利用する自由を認められているものと解される。/次に、公共の施設を起居の場所とすることを余儀なくされている者が存在するのは、憲法および生活保護法ならびに本法〔注:ホームレスの自立の支援等に関する特別措置法〕で住居を含む最低生活保障の義務を負う国および地方公共団体が、その義務を履行していないからであって、公共施設等での野宿行為は国等の不作為による違法行為から逃れた緊急避難である。したがって、民事的にも刑事的にも違法性を阻却され免責されるものである。」(★18)

公共施設を居住の場所として利用する自由は法的に認められているのであり、野宿行為は民事的にも刑事的にも違法性を阻却され免責される。したがって、強制立ち退きは特措法をはじめとする国内法や、国際人権規約等に違反する。まして、自立支援施策の責任主体である地方自治体が野宿者に対し土地明け渡しを裁判に訴えることは、とうてい支持され得ないのである。「有識者見解」がなにより優先して確認すべきは、この大前提であった。また「有識者見解」は、あいりん総合センターの耐震性や、「求職活動の支障」「環境衛生の悪化」などを理由に、センター周辺における野宿は早急に解消されるべきとも論じている。しかし、すでに述べたように、これらの論述はいずれも妥当性を欠いている。
 なぜ、「有識者見解」および『有識者報告書』は、必要最低限の客観性をも欠落させてしまったのだろうか。思うに、2012年以降のまちづくりの取組みの成功を急ぐあまり、その妨げとなるような事実を直視する作業が、ないがしろにされてしまったのではないか。だが有識者の成すべき役割とは、成功や肯定面を広く伝えることだけはないだろう。その否定的側面や限界を正しく認識し伝えることは、肯定面の評価に劣らぬ重要性をもっているはずだ(★19)。また、そのことによって初めて、多様な政治の可能性を捉える視座が生まれるはずである。2000年代初頭に「釜ヶ崎のまち再生フォーラム」に携わった英隆一郎氏は、釜ヶ崎での自身の経験にもとづき、「支援の仕方」には「善意のボランティア型」「たたかい・対決型」「コミュニティ自立型」の3つのあり方があると論じた。そして、それぞれのあり方が、いずれも固有の可能性と限界とをもっていることを指摘した(★20)。そこに、どれかの「支援の仕方」を絶対視する判断は、いっさい差し挟まれていない。このような広い視点こそ、有識者に求められるものではないだろうか。


★1)鈴木亘『経済学者 日本の最貧困地域に挑む――あいりん改革 3年8ヵ月の全記録』東洋経済新報社、2016年、11頁。
★2)笹沼弘志『ホームレスと自立/排除――路上に<幸福を夢見る権利>はあるか』大月書店、2008年、169頁。
★3)生田武志「維新政治下の大阪再開発と釜ヶ崎」『福音と世界』2019年12月号、22頁。
★4)2016年10月には、厚生労働大臣・大阪府知事・大阪市長宛てに「あいりん総合センター」の本移転のビジョンなき仮移転に反対する署名」が提出された。この署名が訴えたのは、耐震性を根拠として進められるあいりん総合センターの閉鎖および仮移転が、結果として再開発やジェントリフィケーションの引き金となるのではないかという危惧であった。
★5)「渋谷・宮下公園の解体工事開始 市民無視で商業施設の屋上へ」週刊金曜日オンライン、2017年9月15日(http://www.kinyobi.co.jp/kinyobinews/2017/09/15/antena-72/)。なお、「宮下公園「整備計画」よもやま話」がサイト内(http://miyasitaseibi.blog71.fc2.com/)で公開している渋谷駐車場の『耐震診断調査報告書(構造計算)』によれば、2008年9月の調査時点での構造耐震指標(Is)は次のとおりである。渋谷駐車場A‐1棟:0.55(X方向)/0.29(Y方向)。同A‐2棟:0.44(X方向)/0.44(Y方向)。同B‐1棟:0.46(X方向)/0.25(Y方向)。同B‐2棟:0.58(X方向)/0.32(Y方向)。
★6)渡辺拓也氏もまた、「建て替えが終わるまでに起りうる問題について、十分検討され、対策がなされたとはとても言えなかった」と指摘するとともに、まちづくりの議論に労働者の声が反映されていないことを問題視している。(渡辺拓也「まちづくりの落とし穴――反ジェントリフィケーションの釜ヶ崎」『現代思想』47(12)、2019、60‐69頁。)
★7)笹沼、前掲書、163頁。
★8)たとえばパリでのジェントリフィケーションと立ち退きの実態について、マリー・ウイバン氏は次のように述べている。「貧者の進んでいる地域は、建物が老朽化しても改修されることはありません。公共サービスもどんどん撤退していきます。地区全体が放置されているような状態になっています。……(中略)……〔こうして〕すべての人が追い出されたあとに、建物を壊して、もっと付加価値のある住宅を建設し、階層の高い人を入居させるということが起きています。」(稲葉奈々子+マリー・ウイバン+原口剛「非常事態宣言と都市」『グローバルコンサーン』2019年3月31日号、89‐90頁。[https://dept.sophia.ac.jp/is/igc/publications_gc2_001.php])
★9)そのことは、次のように小見出しを並べるだけでも、すでに明らかであろう。「想定される妨害活動とその対策」(鈴木、前掲書、385頁)、「活動家の間近でレクチャーするという陽動作戦」(399頁)、「騒ぎつづけた見知らぬ労働者風の若者」(401頁)、「手続き論で攻撃し始める初見の活動家たち」(422頁)、「空振りに終わった活動家たち」(423頁)、「打つ手なしで「橋下出てこーい!」と騒ぐ活動家」(424頁)、「活動家たちが分散し妨害行動が弱まる」(427頁)、「罵声やヤジのない静かな第5回会議」(429頁)。
★10)鈴木亘氏がみずから認めるように、「本物の直接民主主義ではないので法的根拠はないし、まちづくり検討会議で決めたことを知事とともに実行すると言っているのは、単に橋下市長〔注:当時〕の口約束にすぎない」(鈴木、前掲書、422頁)。じっさい後述するように、2015年には地域内の住民の要望とは無関係に監視カメラが大規模増設されたという事実があった。そのようなリスクがある以上、「まちづくり会議」にあえて参加しないという選択は、合理的な判断のひとつであったといえる。
★11)原口剛『叫びの都市――寄せ場、釜ヶ崎、流動的下層労働者』洛北出版、2016年。
★12)生田武志『釜ヶ崎から――貧困と野宿の日本』筑摩書房、2016年、18-19頁。
★13)マシュー・マー「ジェントリフィケーションと住まいの状況と不安」『空間・社会・地理思想』21号、2018年、8‐9頁。(https://www.lit.osaka-cu.ac.jp/geo/pdf/space21/21_3marr.pdf)
★14)マー氏の調査は、西成特区構想に対する認識は住まいの安定性によって異なり、とりわけホームレス状態にある人びとは脅威や不安を感じている傾向が強いことを明らかにしている(マー、前掲書)。また別の側面では、「灰色の街に色彩の力を!」といったスローガンを掲げる地域のコミュニティアートが、ジェントリフィケーションに適合するよう空間の性質を変容させてしまっていることへの批判が投げかけられている。(中村葉子「なぜアートはカラフルでなければいけないのか――西成特区構想とアートプロジェクト批判」『インパクション』195号、2014年、70-76頁[https://antigentrification.info/2017/09/16/2014ny/])。
★15)より正確には、ある意味で言及されてはいる。「この提言〔有識者座談会報告書(2012年10月)の提言〕に基づき、地域住民をはじめ様々な関係者が集まって議論を重ね、行政各機関も集中的な取り組みを展開した結果、違法露店、ごみの不法投棄、違法駐輪など、治安面や環境面では大きな改善が図られてきた」。監視カメラの大規模増設や公園からのテント小屋の立ち退きが、ここでいう「治安面や環境面の大きな改善」のなかで言及されていると考えることは可能である。ただしこの場合、それは積極的に評価されるべき「成果」として掲げられているのだ。
★16)園部雅久『現代大都市社会論――分極化する都市?』東信堂、2001年、87頁。なお、園部氏の「ホームレス」理解に対する批判については、次の文献を参照のこと。島和博『現代日本の野宿生活者』学文社、1999年。
★17)笹沼、前掲書、169頁。
★18)笹沼、前掲書、165-166頁。下線は筆者挿入。
★19)まちづくりの限界を指摘することは、その可能性を全否定することではない。事実はむしろその逆で、「なにができないか」を認識することは、現実的になにが可能かを考察するうえで欠かせない要件である。
★20)英隆一郎「釜ヶ崎で、触れて感じて思ったこと」(http://www.jesuitsocialcenter-tokyo.com/bulletin/no123/bujp1231.html)


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