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「得体の知れない不吉な塊」を科学的に考察する
「得体の知れない不吉な塊」を科学的に考察する
——梶井基次郎『檸檬』は心の不調とその解消を科学的に描いた作品でもあった
梶井基次郎の『檸檬』に登場する「得体の知れない不吉な塊」は、主人公の生活を蝕み続ける不安やストレスの象徴として描かれています。
しかしこの「不吉な塊」、科学的に証明された現代人が陥りがちな心理状況でもあるんです。
この「不吉な塊」が何なのかを、心理学・脳科学・生理学の視点から科学的に考察していこうと思います。
① 「得体の知れない不吉な塊」とは何か?
作中、主人公はこの「塊」について次のように語っています。
「得体の知れない不吉な塊が私の心を始終圧えつけていた。」
「焦躁と言おうか、嫌悪と言おうか」
この「不吉な塊」を持った主人公はこのような心理状況だったと定義してみました。
✔正体がわからないが、確実に心を支配されている
✔目には見えないが、胸の奥で何かがのしかかっている感覚。
✔理由ははっきりしないが、常に心のどこかでざわついている。
この状態は現代でいう「抑うつ状態」「不安障害」 に非常に近い状態です。
② ストレスによる「不吉な塊」の形成
心理学的に見ると、「得体の知れない不吉な塊」は、慢性的なストレスが引き起こす精神的・身体的反応の結果と考えられました。
ストレスとは、脳が「危険な状況にある」と判断したときに生じる防御反応。
ストレスが蓄積すると、脳と身体に以下のような変化が起こる。
1. 脳内の扁桃体(不安や恐怖を司る部位)が過活動状態になる
2. セロトニン(精神を安定させるホルモン)が減少し、抑うつ状態に近づく
3. コルチゾール(ストレスホルモン)が増え、身体的な不調を引き起こす
「不吉な塊」は、ストレスの蓄積によって生じた脳の過剰な警戒反応 だと考えられます。
また主人公は肺尖カタル、神経衰弱も併発していると記載があり、脳が危険だとより感じやすい状況だったのではないかと考察されます。
※肺尖カタルとは
肺の上部(肺尖)に起こる慢性的な炎症で、結核の初期症状として現れることが多い。咳や軽い発熱、倦怠感などの症状があり、当時は不治の病と恐れられていた。
※神経衰弱とは
過度のストレスや精神的負担が原因で神経系が弱まり、身体的・精神的な疲労感が強くなる病気。症状としては、頭痛、眠れない、イライラする、集中力の低下などが現れます。
③ アルコールと「不吉な塊」——飲酒の影響
「――酒を飲んだあとに宿酔があるように、酒を毎日飲んでいると宿酔に相当した時期がやって来る。それが来たのだ。これはちょっといけなかった。」
主人公は作中で「毎日酒を飲んでいた」と述べていいます。
実は、アルコールの常習的な摂取は「不吉な塊」をさらに悪化させる要因ともなってしまうんです。
アルコールがストレスに与える影響
1. 一時的なリラックス効果
• アルコールはGABA(抑制性の神経伝達物質)を増やし、一時的に不安を和らげる
• そのため、酒を飲むと「気が楽になる」と感じる
2. 長期的なストレス増大
• しかし、アルコールはセロトニンを減少させるため、飲酒後に不安感が増大する
• 慢性的に飲酒すると、扁桃体が過活動になり、不安を感じやすくなる
3. 離脱症状による「塊」の強化
• 翌日、アルコールが抜けると、ストレスホルモン(コルチゾール)が急増する
• その結果、「得体の知れない不吉な塊」がより強く感じられるようになる
つまり、酒を飲むことで一時的に「塊」は消えるが、翌日にはさらに大きくなって戻ってきてしまう、ということです。
この悪循環が続くことで、「塊」はどんどん大きく生活を蝕んでしまうことになります。
④ 借金が生む「塊」——慢性的な経済ストレス
「また背を焼くような借金などがいけないのではない。いけないのはその不吉な塊だ。」
作中では、主人公が「借金」を抱えていることが示唆されている。
経済的な不安は、人間の精神に強いストレスを与えることが科学的に証明されています。
経済的ストレスが脳に与える影響
✔ 経済的な不安が長期化すると、脳の報酬系(ドーパミン回路)が鈍化し、喜びを感じにくくなる
✔ お金の心配は「慢性的なストレス」となり、コルチゾールの分泌を増やす
✔ 借金の重圧は、絶えず未来への不安を生み、「不吉な塊」を肥大化させる
つまり、借金は心理的な「圧迫感」となり、「不吉な塊」の重要な構成要素となりえます。
主人公の抑うつ的な心理状態は、借金によるストレスによってさらに悪化していた可能性がかなり高いとも言えるでしょう。
またこれに関連してお金が足りないという考えるとIQが下がるというものもあります。
借金やお金の不足がIQを低下させるメカニズムは、主に「認知負荷(cognitive load)」の増加によるものです。経済的な不安があると、常に「どうやって支払いをするか」「生活費をどうやりくりするか」といった悩みが頭を占め、脳のリソースが消費されます。
その結果、問題解決能力や意思決定力が低下し、一時的にIQが低くなる(約13ポイント低下するとする研究もあり)ことが確認されています。これは、慢性的なストレスが集中力や記憶力を奪い、認知機能を妨げるとされています。
⑤ 「歩くことで楽になる」——ストレス解消の科学
「何かが私を居堪らずさせるのだ。それで始終私は街から街を浮浪し続けていた。」
主人公は作中で、歩くことによって「塊」が少し和らぐような感覚を持っている事が記述されています。
実際に、歩くことはストレスを和らげる効果が科学的に証明されています。
✔ 有酸素運動は、脳内でエンドルフィン(快楽物質)を分泌させる
✔ セロトニンが増え、不安感が軽減される
✔ リズム運動(歩行)が脳のストレス耐性を向上させる
つまり、歩くことは「塊」を一時的に小さくする自然な治療法だったとも言えるんです。
⑥ 「檸檬」の爆発——脳科学的な意味
「私は変にくすぐったい気持がした。「出て行こうかなあ。そうだ出て行こう」そして私はすたすた出て行った。
変にくすぐったい気持が街の上の私を微笑ませた。丸善の棚へ黄金色に輝く恐ろしい爆弾を仕掛けて来た奇怪な悪漢が私で、もう十分後にはあの丸善が美術の棚を中心として大爆発をするのだったらどんなにおもしろいだろう。」
主人公は最終的に「檸檬を爆発させる」という想像に行き着く。
これは、「不吉な塊」を吹き飛ばす願望の表れ であり、脳科学的に以下のように解釈してみました。
✔ 人間の脳は、強いストレスを感じると「カタルシス(解放)」を求める
✔ 破壊のイメージは、無意識的にストレスを軽減する手段となる
✔ 「爆発させる」ことで、脳は一瞬だけ解放感を感じる
この想像は、主人公の「最後の抵抗」だったのかもしれません。
「不吉な塊」の科学的正体
✔ 「不吉な塊」は、慢性的なストレス、不安、抑うつの象徴である
✔ アルコールの影響で、扁桃体が過活動になり、不安が増大した
✔ 借金による経済的ストレスが「塊」をさらに強化した
✔ 歩くことで一時的にストレスが軽減された
✔ 「爆発」のイメージは、ストレス解放の脳科学的反応だった
こうして見てみると、「得体の知れない不吉な塊」は決して得体の知れないものではなく、
現代のストレス科学によって説明できる心理状態だった のではないでしょうか。
『檸檬』の世界は、まさに「ストレスに蝕まれる脳」を描いた文学だったのかもしれません。
架空結社ハリー商会