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屋根瓦 権左衛門のことを話そうと思う。

彼は仕事をしていない。履き古した靴、擦り切れたクラッチバッグ、大昔に買ったフェルトハットがアイコンの中年男性だ。お金に困っている様子は見えないが、皆彼が何で生計を立てているのか知らない。

彼には商店街のはずれのスナックに行けば会える。いつも誰かから奢ってもらっているようだ。ある日ふいに彼に会いたくなり、いつもは通らない路地を歩いて店に行く。そして、とりとめもない話を彼に向かって語り出す。彼は特別話を聞くことに長けているわけではないけれど、おいしそうに煙草を吸っている彼を見ながらその店の薄いハイボールを飲み始めると他の人には話せないことまで自然と話せてしまう。

彼を見ていると皆ふと自分の家にある壊れかけた棚とか、流しの引き出しがガタついていたことなどを思い出す。そしてそれをなんとなく彼に言ってみる。すると彼はカウンターに無造作に置いていたクラッチバッグから使用済みのメモ用紙を取り出し、裏側に万年筆で何かを書きつけその客に渡す。そこにはたとえば引き出しのネジを取り扱っている隣町の金物屋までの行き方が書いてあったり、木は湿気に弱いとだけ書かれていることもある。そのメモを貰った客は一様に喜び、ある人はそれを財布に入れて持ち帰る。さほど困っていたことではない悩みだけど、力強い解決法を授かって、来た時よりも幾分晴れた気持ちで家路に着く。

わたしのほかにも彼とお酒を飲みたくてこの店に来る客はいるはずだ。なぜなら彼がこの店でお金を払ったことは一度もないとママは言っていたし、ツケがあるわけでもないという。彼から直接ほかの客の話を聞いたことはないけれど、わたしだけが彼に会うためにここへ来るわけでもないだろう。それなのにわたしが店に行くと彼はいつも一人でカウンターに座っている。あたかも彼に会うのには順番があって、皆几帳面にそれを守っているかのようだ。

時折わたしはこの町に住んでいるであろうほかの客たちのことを考える。彼らも他愛のない話をしにあのスナックに行くのだろう。そして彼にあのメモをもらい、小さなちからを受けとるのだろう。味気ない日々を送っているように見える人の中にも彼のことを知っている人がいて、彼はその人たちの中で確かに生きている。あの小さなメモに励まされているのはわたしだけではないと思うと、ほんの少し明日に希望が持てる。

屋根瓦 権左衛門とはそういう人だ。

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