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#10 私が早実を辞めた理由(下)


今回は私の高校時代、早稲田実業学校入学から辞めるまでのお話の後編です。

「なぜ早実に入学したのか」「なぜ早実を自主退学したのか」

自分のホンネを語りたいと思います。


ラストチャンス


「18歳で海外に出るのは遅すぎる」

これが海外挑戦を決めて最初に言われた言葉でした。

高校中退した身ですがそれでも海外に出たのは遅すぎたのです。18歳で海外にプレイ拠点を置くことは無謀な挑戦でした。大学進学前に北米で三年しかプレイしていなく、ジュニアではたったの二年。NCAAに入ることができたのは本当に運が良かったと言えます。「二年もジュニアでプレイするチャンスがあるじゃないか」と思う方もいると思いますがアメリカのユースホッケーのシステムはとても複雑です。

アメリカでホッケーをする上で重要になってくる一つに「スタッツ」があります。これは「何歳の時にどのチームでプレーし、どのような結果を出したか」を確認するための言わば履歴書のようなものです。私にはそれがありませんでした。高いレベルになるにつれスタッツは重要視されます。なぜならスタッツは年間を通してどのくらいの結果を残せるのかの指標になりますし、チームも年間安定してプレイできる選手を求めるからです。だからこそ若い時から海外に渡りスタッツを築き、信頼度を高めるのはマストになってきます。どれだけスキルがある選手でもいきなりチームに出向いて「俺は結果を残せるから雇ってくれ」と言っても信頼に値しないのです。これはスポーツに限ったことではありませんよね。就活の際に高校や大学など自分の過去の経歴を明かさず「私は仕事ができるので雇ってください」と言っても相手にされないのは分かりきっていることです。良い企業に入りたければそれなりの経歴が必要ですし、自分が必要な存在だと認めてもらうために良い大学を目指したり、資格をとったりするのと、ホッケーでいうスタッツを作るというのは同じようなことです。

まして日本のホッケー水準は海外と比べて決して高くはないので、どれだけ日本で活躍してようが、国の代表に選ばれてようがスカウトの対象にはならず、「でも、日本でしょ」で片付けられてしまうのです。(*日本の中学、高校、大学ホッケーは国際的なスタッツの対象外です)勿論トライアウトで結果を残せばチームに入ることは可能ですが、リーグレベルが高くなるにつれこれは難しくなってきます。同じようなレベルのアメリカ人選手と比べられた時、スタッツがないことは間違いなく不利に働くのです。

*こちらが前文でお話ししたElite Prospectsと呼ばれる国際的なデータベースで、世界選手名鑑のようなものです。

ジュニアリーグはカテゴリーやレベルが明確であるので、ここでプレーすることはスタッツを築く上で最適なのです。これがジュニアでプレーする理由、そして海外挑戦した人が「海外に行くのは早い方が良い」と勧める最大の理由でもあります。

本来は16歳から20歳までの4年間ジュニアでプレーできるのに対し、私は18歳からの2年間、ましてそれ以前のスタッツもない。高校三年生で海外挑戦を決断したのは遅すぎました。それでもその2年間に博打した、するしかありませんでした。


これが私のラストチャンスだったのです。




私を変えた激動の早実時代

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前編で述べたように当時、早実での生活は苦しいことの方が多かったですが学んだことは本当に多くありました。

前編はコチラ

早実アイスホッケー部は他校とは違いスポーツ推薦で入学してきた数名の経験者と高校からアイスホッケーを始める未経験者で構成されています。(文章で分かりやすくする為にあえて経験者と未経験者という書き方で差別化をしています) これは自分にとっては初めての経験でした。それでも早実アイスホッケーは「全員で勝つ」というのを目標にしていました。経験者、未経験者関係なくみんな平等で楽しくホッケーをして強豪校に勝つ、これこそ美学だというのです。


しかしそれは無謀な話です。


まず初めに厳しい現実を言うとアイスホッケーは数年でスキルが身に付く簡単なスポーツではありません。スケート靴を履いて氷の上をを滑れるようになるのも半年から数年かかるのに対し、ホッケーはそれに並行してスティックの扱い方も覚えなければなりません。私は6歳から競技を始めたので気づいた時には滑れるようになっていましたが、高校から始めるというのは計り知れない努力が必要になります。私はこのチーム方針にずっと疑問を感じていました。「経験者だけ使って勝てば良い」これが勝つための最善策です。しかしこれは自分勝手ですし、人間としての感情が欠如してますよね。経験者と未経験者が混同しているチームである以上その選択肢はありません。しかし「皆んな仲良く平等なアイスタイムで試合に出て大差で負ける」これがチームの在り方で良いのか。それを考えながら二年間を過ごし、いざ私が三年生になった時です。チームで大きな改革がありました。

・スポーツ推薦者入学者数0
*前年度までは毎年三人のスポーツ推薦入学者(合計九人の経験者)

・コーチ不在

ややこしい話であるので経緯は述べる事ができませんがアイスホッケー部の弱いところです。当時ホッケー部は早実内部で立場がかなり弱かったので仕方ないといえば仕方ないで片付けられてしまいますが、早稲田系属は思ったよりも強大な組織で生徒や部活でどうこう出来るような問題でもありませんでした。最高学年になった途端がこの現実とは正直先が見えず不安だったのを覚えています。部内の経験者は六人、コーチ不在で夏の全国を戦い抜かなければいけませんでした。プラスして与えられた部活可能区域はキャンパスとグラウンドを繋ぐ長さ十メートルほどのスロープのみ。通路として使用されるので先生や生徒が通る度に部活が中断します。今時の熱血少年漫画でさえもっと良い環境で部活ができるのではないかと思いました。

しかしここから始まったのです。始まるしかなかったのです。

経験者6人未経験者12人の戦いが。

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部活場所がない為、公園でのトレーニング



チーム始動


チーム始動当日、まず私はチームにある提案をしました。

「今まで通り、平等なホッケーをする」

それとも

「勝つ為のホッケーをする」

勘違いしてほしくないのは平等なホッケーが「本気ではない」ということではありません。どちらの結論になっても本気でやる事は決まっていました。平等なホッケーをすれば勝てないかもしれませんが全員が確実にアイスタイムを獲得できます。しかし勝つ為となればそれは保証できません。なぜなら対戦相手、展開、点差など色々な外的環境が作用してくるからです。あくまでチームが、選手個人が何を求めるのか確認したかったのです。ここで幸いだったのは全員が「勝つ為のホッケーをしたい」と思っていた事でした。正直ここで一人でも平等なホッケーをしたいという意見があれば、勝つ為のホッケーは成立しませんでした。チームの為に一人を犠牲にすることはできないからです。

そして「皆んなで勝つ」という早実の定義について考えました。まず

『勝つ為のホッケー』=『経験者で勝つ』

ということではありません。未経験者が経験者の倍以上いるチームである以上、どこかのポイントで必ず試合には出場しなければいけないですし、彼らがチームに在籍してくれるからこそチームとして試合が出来るからです。そこでまず「間違った練習」を廃止しました。これまで未経験者は基礎的なハンドリング(パックをスティックで扱う技術)やスケーティング、経験者はシステムと別れて練習していましたがこれをやめました。ここで求められるのは「自分の役割は何か」を知ることです。例えば高校からホッケーを始めた選手がブレイクアウトで綺麗にパスを回しながら、アタッキングゾーンにエントリーし、バックドアを華麗に決める。これは不可能なのです。練習でハンドリングを極めたとしても、3年間で10年ホッケーを続けてきた選手に追いつく事はかなり難しいですし、まして試合で使う機会はほとんどありません。だからこそ経験者と未経験者で出来る役割を差別化しました。経験者に求められるのは得点を決めたりエントリーするなどの高い競技技術が求められるゲームメイク、未経験者は*スクリーンや*ディフレクションなどそこまでの技術は必要ないが確実に流れを作るチャンスメイク。これこそが私たちにできる勝ち方だったのです。氷上練習は週2回しかないのは変わっていないので、初日は陸上で一時間半フラッシュスクリーンの練習をしました。その他にもボールを使って*ブレイクアウトや基本的な展開の動きを予習してから氷上練習に入ったり、毎週基本的なホッケーの能力を身につける為の座学などを積極的に行いました。アイスタイムがないからこそ時間を有効に使うことがカギでしたが、陸上でもできる事は多く、今までどれだけ氷上で無駄な時間を過ごしてきたのかと考えさせられました。

*スクリーン:ゴールキーパーの視界を遮る為の動き
*ディフレクション:飛んできたシュートの角度を変える行為
*ブレイクアウト:自陣からパスを回して展開を組み立てる戦術


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経験者6人衆



そしてもう一つチームで行ったことがあります。

全国選抜まで、全ての試合を捨てる


これはチームでもかなり意見が割れました。捨てるというのは勝ち負けに拘らず、試合を練習化するということです。「これでは勝つ為のホッケーではないじゃないか」と矛盾も承知ですが、あくまで私たちの意味する勝つ為のホッケーとは「夏の全国選抜の二回戦、三回戦で強豪校に勝つ為のホッケー」という考え方です。であるのでその前の練習試合や都大会で負けようが関係ないのです。また育成やシステムの最適化を図る上でも負けることは、次何が必要なのか、何が足りてないのかを判断する重要な材料でした。これは全国選抜本番前日の練習試合まで続けました。顧問の先生が何故か前々日の練習試合に本二回戦で当たる日光明峰との練習試合を組んでしまい(これに関してはメチャクチャキレましたが、これが現実に起こってしまうのが早実)その試合は普通に戦って0-10で負けました。正直、ぶっ飛んでいる作戦でしたし、これに関してはギャンブルでした。


日光明峰は本州ではトップ3に入る強豪校です。普通のホッケーをしては勝てないのは分かっています。(事実、二日前に0-10で負けてますし)だからこそ何かトリッキーなことをしなければいけませんでした。明峰と当たると分かってから、これまでの日光明峰戦全てのビデオを見直し、失点パターンを分析して、私の三沢ジュニア(青森)時代の恩師にも協力してもらい全員で連動した対明峰対策の作戦を考えました。そのシステムはかなり複雑で、一人一人への反動が大きいので完成させるのには時間がかかりましたが、これこそ私たちがが試合を捨てた理由です。

BOX +1と変則の2-3

当時の作戦であり、この言葉で早実時代を表現できる程何回も使った言葉です。分かって欲しいのは普通に戦って良い試合ができるのであれば一生使う事はないですし、出来れば二度と使いたくないものです。早実ならではの、早実だからこそできる緻密な、頭を使ったアイスホッケーです。この作戦のクレイジーさも恩師からの許可が出ればいつか話します(笑)


迎えた当日、見事にシステムはハマりました。


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最後のタイムアウト


しかし結果は

4-5で負け

前々日のシステムなし0-10と比べたら大拍手ですが、負けたら何も証明することはできないのです。どの試合も終わったら動画を見ますが、この試合だけは未だに見れていないのです。これほど勝ちたいと思った試合はありませんでした。久しぶりに泣きました。



自主性と創造力


これは早実で学びました。ゼロからチームを創るというのはつらくて、大変で、複雑で、何から始めれば良いか分からない、計り知れなく、未知なものでした。上手くいかない時期が長すぎてチームのモチベーションを維持するのも大変でしたし、まさにお先真っ暗。自分達のやっていることが正解なのかも分かりませんでした。負けたら何も残らないと思っていました。しかし一つ大きなことを成し遂げたいと思い、何か大きなものを犠牲にしてチームで戦うことから学んだことは今の自分を動かす原動力でもあります。



同期の存在

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同期


前文でも述べたような激動の早実時代を過ごした私にとって同期の存在はかなり大きかったと思います。

正直な話、入学当初は同じくスポーツ推薦で入ってきた同期に対しプラスな印象はありませんでした。いかにもマせてる東京男子高校生という感じで『東京の奴らはクレイジーだ』とすら思いました。性格も価値観も見事に違ったので私生活でも、特にチーム方針を話し合った最高学年時は数えきれないほど喧嘩もしました。

東京ではアイスホッケーをする環境は整っていません。前編で述べたように練習は学校前の朝6時から1時間の週2回しかありませんでした。そこで私は毎週水曜日の部活動終了後、江戸川区にあるリンクまで自主練習をしに行きました。20キロ近い防具を背負って、電車とバスを乗り継いで片道2時間かかります。練習を終えて帰路に着く時間は日を越えていました。最初はほぼ無理矢理連れて行ってましたが、私の同期は毎週一緒に練習してくれました。一時間半の練習の為に往復4時間、帰宅ラッシュの時間帯に防具を背負って電車に乗ることは今思えば普通じゃないと思います。正直二人は死ぬほど嫌だったと思いますがこれを毎週、3年間も繰り返しました。

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電車に二時間乗って江戸川で練習する四人


次第に「同期やチームの為に勝ちたい」と思うようになりました。


(全国選抜前vs明峰戦以前の話です)

ある海外挑戦を決めた次の日の昼、同じスポーツ推薦で入学してきた同期二人を学校の食堂に呼びました。彼らには一番最初に伝えるべきだと思ったからです。正直、「行かないでくれ、もう少し待ってくれ」と言われる気がしました。当時、ゴールキーパーは私しかいなかったので、そのキーパーがいなくなることはチームとしてもありえない選択だからです。間違いなく嫌われるだろうと。しかし二人の答えはシンプルでした。『いつかこのチームを去るのは分かっていたし、チームのことは任せて気にせず海外に行って欲しい。』正直驚きました。高校スポーツにとって最終学年はとても大事な時期です。限られたスポーツ推薦枠、ましてや一人しかいないキーパーが去るのはチームにとって大打撃であるのに二人は許すどころか応援してくれました。そして最後の夏の大会を最高のものにしようと誓ったのです。

一通り話した後、隣にチアリーディング部がいるのにも関わらず、3人で号泣しました。いきなり大の男3人が泣き出したのでさぞびっくりしたことでしょう。恥かしいともダサいとも全く思っていません。それだけ熱い話をしていたのです。(その日の部活後は不思議とチア部が帰る前に帰宅しました)


私の同期二人は今年で大学ホッケーを引退し、卒業します。間違いなくこの二人のおかげで素晴らしい高校時代を過ごし、そして今も違う場所で挑戦できています。ありがとう、そしてお疲れ様でした。


また、高校からアイスホッケーというスポーツを選んでくれた高校時代の同期にもとても感謝しています。彼らがいなければ私たちはチームとして活動することも出来なかったですし、何より一からアイスホッケーを始めるということは私には想像できないほど勇気がいることだったと思います。それでも毎日必死に努力し続ける姿から多くの大切なことを学びました。


これが私の早実時代のお話です。今までこの話を聞かれた時に濁してきた理由は「話すとしたら長すぎるから」です。(湊かなえ並の伏線回収)


この選択が、この挑戦が吉と出るか凶出るかはまだ分かりません。しかしこの選択がなければ一つの目標でもあったNCAA進学も叶わなかったでしょう。


人としても大切なことを学び、自分の人生を大きく変えてくれた早実時代のお話はこれで終わりです。まだまだ話したいことは沢山ありますがいつか書くであろう小説の為にネタはとっておきたいと思います。(冗談)


最後になりますが家族はもちろん、同期、早実時代のチームメイト、友人、先生には感謝しても感謝しきれません。この挑戦を応援してくれている人がいるからこそ心が挫けそうになった時に一歩が踏み出せるのです。いつかこの決断が最高の選択だったと言えるように、ただがむしゃらに、前を見て進んでいきたいと思います。


たまには過去を振り返るのも面白いですね。


さあ、現実に戻って頑張ります!!




最後まで読んで頂きありがとうございます。今回は雪の中のアーサーを探せでお別れです。

それでは! See you later!! #10


冨田開(とみたかい  1999年5月23日)は青森県三沢市に長男として生まれ、6歳の時に友達から誘われホッケーを始める。小学校三年生の時に試合前ゴールキーパーが不在だった際、ジャンケンに敗北した事をきっかけにゴールキーパーを始めさせられる。小学生は三沢ジュニアアイスホッケークラブ、中学生では三沢中学合同(三沢市立堀口中学校)でプレーする。U16日本代表に選出されロシア遠征に参加、青森県選抜チームに選出され全国大会3位、三沢中学合同チームでは全国4位となる。その後、東京都国分寺市の早稲田実業学校に進学。高校3年時にU18日本代表としてスロベニアの世界大会に参加。高校3年夏に早実を自主退学しカナダオンタリオ州にあるOntario Hockey Academy(オンタリオホッケーアカデミー)ホッケー学校に転学。卒業後は2年間アメリカのジュニアリーグ(20歳以下の育成リーグ)3部でプレーする。
2018-2019 North Iowa Bulls(NA3HL)- Wisconsin Whalers(NA3HL)2019-2020 Pittsburgh Vengeance(USPHL Premier)
今秋からNCAA Div3 New England College(ニューイングランドカレッジ、ニューハンプシャー州) 北米大学ホッケーリーグ2部に挑戦。






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