色々ありましたが無事に赤ちゃんが産まれました
12月26日、午後7時半。
日本から遠く離れた、東欧のジョージアという国で3100gの女の子が無事生まれました。
今この記事を書いているのは、12月26日から日付が変わって、27日になろうかと言うところです。
気づけば実際に妊娠してから、出産の立ち会いの今日まで、ずっと妻のそばにいました。
ずっとそばにいたと言うのは、本当に文字通りこの期間、僕はどこか会社に行って働くとか、自分の鍼灸院で患者さんを治療するということをしていませんでしたので、 ずっと妻と時間を過ごしてきました。
その中でつわりの辛さや、衰えていく体力、増えていく体重、色んなことに葛藤している妻を横から見てきました。
つわりが原因で、あんなに楽しみにしていた日本の食事をほとんど食べることが出来ませんでした。
運動神経抜群で、 鉄棒やパルクールもやってのけるほどでしたが、 階段を10段上がるだけで息が切れていました。
そして出産直前はどんどん体重が増えていき、カメラの前に出ることが好きだった妻が、それをコンプレックスに感じて悩んでいました。
今回は、 まだ記憶が鮮明なうちに妊娠の発覚から出産の立ち会いまで、夫目線の僕から見た妻について、話をしていきたいと思います。
妊娠発覚
私たちの間に妊娠が発覚したのは、今年の5月ですが、結婚してすぐから、妻は子供が欲しい欲しいとずっと言っていました。
むしろ僕の方が年齢も年齢なんで、 急がないといけないと思うんですが
「とりあえず日本に行くのが夢なんやったら、日本に行ってから考えたらいいやん。 子供ができたらなかなか動きづらくなるで。」
と言って、結婚してから一年間、妻を諭して続けていました。
そして今年4月、待望の日本へやってきて、交渉していたタレント事務所ともちょっと契約が難しそうだなーとなったとき、妻が
「そろそろ子供できてもいいんじゃない?」
と言ったのをきっかに妊活をはじめ、ありがたいことにすぐに授かることができました。
妊娠が発覚したときの妻の家族や、親戚の反応はこんな感じでした。
とってもあったかいですね。
それから妻を日本の産婦人科に連れて行ったのですが、 そこでとても良い先生に巡り会うことができました。
合計4回ほどお世話になったのですが、行くと毎回15分から30分ほど忙しい中、世間話も交えて、色々と教えてくれました。
先生はもともと旅行が好きなようで、 世界地図を持ってきて、ジョージアがどこにあるのかや、そして自分の院に来た外国人の国を色ペンで囲っていました。
ジョージアの人は初めてだったようで、先生はジョージアを色ペンで囲みながらうれしそうに
「遠いところからよく来たねー!」
と暖かく迎えてくれました。
そんなとってもフレンドリーな先生が納豆をごり押ししていたので、妻も
「あの先生が言うならとやってみよう。」
と言って食べてみました。そのビデオがこれです。
残念ながら今回は3ヶ月の滞在だったので、保険が効かなかったですが、それでも先生が色々と、うまくいくようアドバイスまでしてくれました。
僕もはじめての子供だったので、何が必要でどんなことに気をつけたら良いのか、インターネットで知れるような知識しか無かったので、経験豊富な先生から色々アドバイスを頂けて助かりました。
特に妻は知らない土地で、言葉もうまく通じない中で、いろいろ不安もあったと思いますが、この先生のおかげて少し不安は和らいだように見えました。
妊娠初期5月〜6月
すぐに妻の体に異変が現れました。
結論から言えば完全につわりをなめていました。
妻は三姉妹なのですが、真ん中のお姉さんタメラも妻の妊娠の3ヶ月ほど前に妊娠しており、つわりがほとんどありませんでした。また妻のお母さんもほとんどなかったため、全然警戒していませんでした。
まず、来日したときにあんなにおいしそうに食べていたコンビニのおにぎりが全く食べれなくなりました。
目を輝かせて食べていた焼肉も含め、肉、魚がほとんど食べれなくなりました。
日本食の経験が無いため何が食べれて何が食べれないのか、全く分からないので、1口、口にしてから嘔吐することを繰り返していました。
この頃は毎日伊勢丹や高島屋のデパ地下にあるパンばかり食べていました。ジョージアで買えば50円位で買えそうなパンを、デパ地下で500円位出して買ってました。
日本に来てせっかくおいしいものや、食べたいものがたくさんあったのに、そういったものを食べれない妻を横で見ていて、とてもかわいそうでした。
漢方を買ったり、鍼治療をしたり色々試したりして、なんとかやり過ごしていました。
毎日、朝早く出て、夜遅く帰ってくる。
そんな観光とYouTubeの撮影を行うハードスケジュールだったので、減っていく体重との戦いでした。
特に6月は友達にバンライフ用のバンを貸してもらい、それに乗って北海道に行く予定でしたが、この頃、妻が日本で食べれるものを探すのがとても難しくなってきていたこと、そしてバンライフはお風呂をどこかスーパー銭湯で済ませないといけないことが多いのですか、タトゥーのため入場を断られることが多く、そういった面でもバンライフがすごく難しかったので北海道行きを断念しました。
結局1ヵ月予定していたバンライフでしたが、1週間で友達に無理を言って返却させてもらいました。
妊娠中期7月〜9月
7月からはジョージアに帰ってきて、そのタイミングでつわりが軽くなったのか、それともやはり小さい時から食べているジョージア料理が舌に合ったのか分かりませんが、つわりはだいぶマシになりました。
7月の終わりにやっと少しお腹が膨らんできて、本当に妊娠しているんだと感じました。
7、8月はほとんど真ん中のお姉さんのタメラがいるジョージアの海沿いの街で過ごしました
日本にいる時から、しょっちゅう家族やお姉さんたちと電話をして連絡をとっていましたが、 妊婦の先輩であるタメラ姉さんと会って色々と話して、 情報交換ができたのはとても良かったと思います。
またタメラも嫁入りして、遠く離れた旦那の実家で少し寂しさを感じていたようなので、この期間2人でよく会って、いろんなことを話して楽しそうに過ごしていました。
僕はというと1日2回、妻がまだ寝ている朝と夕暮れ時の2回、海で泳いだりして過ごしていました。妻も泳ぐことは好きですが
「ジョージアの海はあまり綺麗じゃないから、感染症が怖い。」
と言って、ビーチに座りながら水平線に沈む太陽と泳ぐ僕を見守っていました。
9月にジョージアの首都トビリシに戻り、病院で検査したところ、子宮けい管が短くなっていて、流産の可能性が高いと診断されました。
三日間の入院と流産防止のための器具を体の中に入れました。
この診断をもらうまで、妻もお腹が小さかったこともありますが、 長時間乗り物に乗って移動したり、よく歩いたり、とてもアクティブに動き回っており、 それが原因かもしれないと言うこともあって、 退院してから家でも絶対安静を保つようドクターから言われました
妊娠後期10月〜12月
この期間、1番大きい変化は体重の増加でした。
先に触れたように、ドクターから今はあまり運動しないほうが良いと言われたこと、そしてお腹が大きくなることにつれて、そもそも歩いたり運動ができなくなっていった結果、体重がどんどん増えていきました。
診断から3週間ほど経って、安静のおかげか子宮けい管の長さも通常に戻り、ドクターから運動okの指示が出ました。
最初は近所のスーパーに行ったり、公園に行ったり、1日5000歩を目標に歩いていましたが、12月に入ってからは5000歩歩くと、腰が痛くなったり、むくみもひどかったので目標を3000歩に減らしました。
ただ近所を歩くだけじゃ退屈だろうと思い、タクシーで自然が綺麗なところに行ったり、野良猫に餌をあげたり、カフェでパンを買って食べ歩きして毎日一緒に歩きました。
そしてこの期間は、妻の腰痛を軽減させるのに一番鍼灸治療が役に立ちました。(鍼灸師になって良かったと思いました)
また、体重が増えたことで、カメラに映る自分の顔が好きじゃなくなったみたいでYouTube撮影中によく愚痴をこぼしていました。
僕は
「とりあえずYouTubeは休んだらいいやん。」
と声をかけましたが、 本人は
「 まぁ、ほんまに無理になったら止めるから大丈夫」
と言って、 結局12月の半ばまで産休もとらず、ビデオを撮影、編集し続けました。
本人はあまり言いませんが、妻の親族の中に若くしてお父さんを亡くして、お母さんとおばあちゃん、小さい子供たちだけで生活している家族がおり、そういった家族や親戚を支えたいのが一番大きなモチベーションになってるんだと思います。
出産
12月25日 クリスマス
いつ産まれてもおかしくないような状況になってから、なかなか陣痛が来ませんでした。
では続きをどうぞ🙇♂️
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